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イタリアの[[カラブリア]]州[[ロンゴブッコ]]出身。[[1901年]]頃に一家で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、10代で犯罪に手を染めた。その後[[ブラック・ハンド]]のボスとして[[ニューヨーク]]に君臨し、初期の有名な[[ゴッドファーザー]]といわれている。情にもろく残忍さと優しさの二面性を持ち合わせて金持ちから奪った金や物を貧しい人々に分け与えることで人気があった。彼自身が貧しい家庭出身で貧乏のつらさが分かっていたため、貧しい人を襲ったり、ただの強盗をすることを決して許さなかった(自分を慕っている商店に強盗が入った時には、イェールは温情として翌日その店のカウンターに現金を置いておいたこともあったという)。タバコ会社を所有して自分の顔をプリントしており、全国的な有名人だった。「闇の王子」「ブルックリンのプリンス」と呼ばれていた。
 
思春期をファイブ・ポインツ・ジュニアで過ごし17歳のときに玉突き[[ビリヤード]]場で大暴れ乱闘騒ぎを起こして刑務所に入った。釈放されるとすぐに拳銃の不法所持で刑務所に送られ、その後も何度か逮捕された。24歳でマリア・デラピアと結婚。その後、ローザとイザベラの2人の娘が生まれる
 
結婚してから事後は[[実者へと変家]]に転葬儀屋になり地元の顔役の生活を送る。彼は副業にもいろいろと手を出し、特に[[酒場]]りわけ[[ダンスホール]]の経営には意欲的に取り組んだ事業はバーとダンス・ホール、そのころバーテンダー兼用心棒として働ける若者の人選探していて[[ジョニー・トーリオ]]にその人選をむとまだ当時は無名の若造存在だった[[アル・カポネ]]を紹介された。イェールはカポネを自分のバーの身が経営する酒場「ハーヴァード・インでバーテンダー兼用心棒として働かせ暗黒街の基礎を教えた。このころ頃、イェールはトニー・ペロッタという男に手を焼いていた。彼は賭博でイェールに借金をしていた。面識のあるカポネが取り立てに行くことを承知した。カポネはペロッタが手にえなくなり射殺してしまった。イェールは「難しい仕事」(殺人の隠語)をやったカポネを好きになった。
24歳の時にマリア・デラピアと結婚する。その後、ローザとイザベラの2人の娘が生まれる。
 
イェールは、伝統的なシチリア人の友愛組織を[[シチリア同盟]]([[:en:Unione Siciliane|en]])にまとめ上げ、組織の全国会本部となっ兼ニューヨーク支部長を務めこの組織は、酒の密造や強請その他のたかり行為の隠れ蓑として機能していた。また彼は、ウニオーネ・シチリオーネのニューヨーク支部の会長でもあった
結婚してから事業者へと変身し葬儀屋になり地元の顔役の生活を送る。彼は副業にもいろいろと手を出し、とりわけ意欲的に取り組んだ事業はバーとダンス・ホール、そのころバーテンダー兼用心棒として働ける若者を探していて[[ジョニー・トーリオ]]にその人選を頼むと、まだ無名の若造だった[[アル・カポネ]]を紹介された。カポネを自分のバーのハーヴァード・インでバーテンダー兼用心棒として働かせ暗黒街の基礎を教えた。このころイェールはトニー・ペロッタという男に手を焼いていた。彼は賭博でイェールに借金をしていた。面識のあるカポネが取り立てに行くことを承知した。カポネはペロッタが手におえなくなり射殺してしまった。イェールは「難しい仕事」(殺人の隠語)をやったカポネを好きになった。
 
[[1920年]]5月にはトーリオと酒の密売のことで対立していた[[ジム・コロシモ]]を[[シカゴ]]の彼の事務所で暗殺した。警察はニューヨークで彼を殺人容疑で正式に逮捕した。しかし、目撃者のウェイターが身の危険を感じて土壇場で記憶がないと言い証拠不十分ですぐに釈放された。同様に[[1924年]][[11月10日]]には[[ダイオン・オバニオン]]暗殺にも参加。このときも警察に疑われたがマイク・メルロの葬儀にきたと弁解し供述を終えてニューヨークに帰った。この暗殺によってイェールは1万ドルと4カラットのダイヤの指輪を報酬としてもらう。受け取った(イェールはオバニオン暗殺に関わっていないという説もある)
イェールは、伝統的なシチリア人の友愛組織を[[シチリア同盟]]にまとめ上げ、組織の全国会長となった。この組織は、酒の密造や強請その他のたかり行為の隠れ蓑として機能していた。また彼は、ウニオーネ・シチリオーネのニューヨーク支部の会長でもあった。
 
[[1922年]]2月ロワー・マンハッタンで行われたギャングスターの集まりに出かけた夜に彼の暗殺未遂が起きた。車を降りダンスホールへ向かったときにう途中で背後から弾が飛んでき撃を受けのだ。銃弾が背後から片肺を貫通するという重傷だったが、一命は取りとめた。警察はライバルの[[ホワイト・ハンド]]のワイルド・"ビル"・ロベットを疑った。
[[1920年]]5月にはトーリオと酒の密売のことで対立していた[[ジム・コロシモ]]を[[シカゴ]]の彼の事務所で暗殺した。警察はニューヨークで彼を殺人容疑で正式に逮捕した。しかし、目撃者のウェイターが身の危険を感じて土壇場で記憶がないと言い証拠不十分ですぐに釈放された。同様に[[1924年]][[11月10日]]には[[ダイオン・オバニオン]]暗殺にも参加。このときも警察に疑われたがマイク・メルロの葬儀にきたと弁解し供述を終えてニューヨークに帰った。この暗殺によってイェールは1万ドルと4カラットのダイヤの指輪を報酬としてもらう。(イェールはオバニオン暗殺に関わっていないという説もある)
 
[[1925年]]のクリスマス・パーティーのときイェールたちを襲撃しようと計画していたホワイト・ハンドのリチャード・"ペグレグ"・ロナガンたちをカポネたちと返り討ちにし殺害する。そしてホワイト・ハンドが消えた壊滅後は[[ニューヨークの波止場港]]の絶対的な支配者となる。
[[1922年]]2月にロワー・マンハッタンで行われたギャングスターの集まりに出かけた夜に彼の暗殺未遂が起きた。車を降りダンス・ホールへ向かったときに銃弾が飛んできたのだ。銃弾が背後から片肺を貫通するという重傷だったが、一命は取りとめた。警察はライバルの[[ホワイト・ハンド]]のワイルド・"ビル"・ロベットを疑った。
 
[[1928年]]にシチリア同盟のシカゴ支部長を巡ってカポネと対立し、その上カポネとの闇酒取引で不正を働いたと疑われ、7月1日に[[ニューヨーク]]をドライブ中に[[トンプソン・サブマシンガン#M1928|トンプソンM1928サブマシンガン]]で殺害された。イェールの運転していた[[リンカーン (自動車)|リンカーン]]は防弾仕様だったがウィンドーガラスには防弾処理が施されていなかった。殺害の実行犯は[[ジャック・マクガーン]]、ジョン・スカリーゼ、アルバート・アンセルミ、フレッド・"キラー"・バーグ。
1925年のクリスマス・パーティーのときイェールたちを襲撃しようと計画していたホワイト・ハンドのリチャード・"ペグレグ"・ロナガンたちをカポネたちと返り討ちにし殺害する。そしてホワイト・ハンドが消えた後は、ニューヨークの波止場の絶対的な支配者となる。
 
[[1928年]]にシシリア同盟のシカゴ支部長を巡ってカポネと対立し、その上カポネとの闇酒取引で不正を働いたと疑われ、7月1日に[[ニューヨーク]]をドライブ中に[[トンプソン・サブマシンガン#M1928|トンプソンM1928サブマシンガン]]で殺害された。イェールの運転していたリンカーンは防弾仕様だったがウィンドーガラスはそうでなかった。殺害を実行したのは[[ジャック・マクガーン]]、ジョン・スカリーゼ、アルバート・アンセルミ、フレッド・"キラー"・バーグ。葬儀は[[ギャング]]としてはアメリカ始まって建国以来最大の規模で行われ15万人の参列者が最後の別れを告げた。イェールの死後、未亡人となったマリア・イェールは家族を養うため工場で1日10時間も働いた。
 
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