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'''永正の乱'''(えいしょうのらん)とは、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]初期の[[永正]]年間に[[関東地方|関東]]・[[北陸地方]]で発生した一連の戦乱のこと。
== 概要 ==
「永正の乱」と称しても、4つの戦いに分けて考える事が可能である。
いずれも原因こそ別々のものではあるが、[[越後国|越後]]の内乱の発端である[[長尾為景]]の謀叛の背景には為景の父・[[長尾能景|能景]]に[[神保慶宗]]救援に向かわせたものの、その慶宗の裏切りによって討たれた事件([[般若野の戦い (戦国時代)|般若野の戦い]])がある。
越後の内乱による[[上杉顕定]]の戦死が[[山内上杉家]]の内紛の端緒であり、その対応で[[古河公方]][[足利政氏
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永正3年
これを討たんとした顕定は永正6年([[1509年]])、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって[[佐渡島|佐渡]]に逃亡した。しかし翌
その後為景は[[宇佐美房忠]]・[[色部昌長]]・[[本庄時長]]・[[竹俣清綱]]ら敵対勢力を破り、越中神保氏討伐へと繋がる。
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永正5年([[1512年]])、顕実は[[長尾顕方]]や[[成田顕泰]]らの支援を受けて[[武蔵国|武蔵]][[鉢形城]]に拠ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・政氏を頼って[[古河城]]へと逃亡した。▼
永正8年([[1515年]])、顕実の死によって終焉。関東管領職も憲房が継いだが、この内紛で弱体化した山内上杉家は[[長尾景春]]の離反を招き、[[扇谷上杉家]]の[[上杉朝興]]や相模[[後北条氏|北条氏]]の[[北条氏綱]]、甲斐[[武田氏]]の[[武田信虎]]などと争うこととなる。▼
▲1512年、顕実は[[長尾顕方]]や[[成田顕泰]]らの支援を受けて武蔵[[鉢形城]]に拠ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・政氏を頼って[[古河城]]へと逃亡した。
=== 古河公方家の内紛 ===
▲1515年、顕実の死によって終焉。関東管領職も憲房が継いだが、この内紛で弱体化した山内上杉家は[[長尾景春]]の離反を招き、[[扇谷上杉家]]の[[上杉朝興]]や相模[[後北条氏|北条氏]]の[[北条氏綱]]、甲斐[[武田氏]]の[[武田信虎]]などと争うこととなる。
[[古河公方]][[足利政氏]]と嫡男の高氏(後の[[足利高基|高基]])が古河公方の地位を争う。永正6年の対立では顕定の調停で和解したが、永正7年の顕定敗死後の山内上杉家の後継ぎを巡り、再び対立。政氏に[[岩城常隆 (下総守)|岩城常隆]]・[[岩城由隆|由隆]]父子・[[佐竹義舜]]・[[小山成長]]が、高基に[[宇都宮成綱]]・[[結城政朝]]が加わり、関東各地で戦闘が続発した。さらに政氏の次男・[[足利義明|義明]]が[[下総国|下総]]で[[小弓公方]]として独立してしまう。
永正5年、高基が政氏を[[出家]]させ、政氏が[[武蔵国]]久喜の館に[[隠居]]することで収束したが、これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、[[後北条氏]]が関東に着々と進出してくるのである。▼
=== 越中神保氏討伐 ===
▲これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、[[後北条氏]]が関東に着々と進出してくるのである。
永正17年([[1521年]])、長尾為景が父・[[長尾能景]]を死においやった[[神保慶宗]]を[[能登国|能登]]守護[[畠山義総]]とともに攻め滅ぼす。「越中永正の乱」とも。▼
▲長尾為景が父・[[長尾能景]]を死においやった[[神保慶宗]]を[[能登国|能登]]守護[[畠山義総]]とともに攻め滅ぼす。「越中永正の乱」とも。
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