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'''永正の乱'''(えいしょうのらん)とは、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]初期の[[永正]]年間に[[関東地方|関東]]・[[北陸地方]]で発生した一連の戦乱のこと。
 
== 概要 ==
「永正の乱」と称しても、4つの戦いに分けて考える事が可能である。
 
いずれも原因こそ別々のものではあるが、[[越後国|越後]]の内乱の発端である[[長尾為景]]の謀叛の背景には為景の父・[[長尾能景|能景]][[神保慶宗]]救援に向かわせたものの、その慶宗の裏切りによって討たれた事件([[般若野の戦い (戦国時代)|般若野の戦い]])がある。
 
越後の内乱による[[上杉顕定]]の戦死が[[山内上杉家]]の内紛の端緒であり、その対応で[[古河公方]][[足利政氏]]父子の意見が割れた事が内紛再燃の原因となった。更に越後の[[内乱]]終結後の長尾為景の国内引締めの一環として[[神保氏]]討伐が位置づけられているため、これらの戦いは相関性の高いものであると考えられている。
 
==[[= 越後国]]の内乱([[1506年]] - [[1514年]])===
永正3年(1506([[1506]])9月、[[越後国|越後]][[守護代]][[長尾能景]]が[[越中国|越中]]で戦死し、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった[[長尾為景]]が、永正4年([[1507年]])8月、[[上杉定実]]を擁立して[[守護]][[上杉房能]]を急襲。[[関東管領]][[上杉顕定]](房能実兄)を頼り[[関東地方|関東]]への逃亡を図った房能を天水越で[[丸山信澄]]らと共に自害に追い込んだ。
 
これを討たんとした顕定は永正6年([[1509年]])、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって[[佐渡島|佐渡]]に逃亡した。しかし翌永正7年([[1510年]])には[[寺泊町|寺泊]]から再び越後へ上陸。為景方が反攻に転じると[[坂戸城]]主[[長尾房長]]は上杉軍を坂戸城には入れず[[六万騎城]]に収容させた。為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却したが、援軍の[[高梨政盛]](為景の外祖父)の助力もあり、[[長森原の戦い]]で顕定を戦死させた。この戦いで、顕定に従軍していた[[長尾定明]]や[[高山憲重]]らも討たれており、[[山内上杉家]]の軍事力は大きく減退した。
 
その後為景は[[宇佐美房忠]]・[[色部昌長]]・[[本庄時長]]・[[竹俣清綱]]ら敵対勢力を破り、越中神保氏討伐へと繋がる。
==[[= 山内上杉家]]の内紛([[1510年]] - [[1515年]])===
上杉顕定が戦死すると顕定と共に為景を討つため出陣し上野[[白井城]]に駐屯していた[[上杉憲房]]は撤退した。関東管領職は顕定の[[養子]]である[[上杉顕実]]が継承するが、同じく養子である憲房はこれを不服とし[[横瀬景繁]]・[[長尾景長]]らの支援を受け[[家督]]を争う。顕実は実兄の[[古河公方]][[足利政氏]]に援助を求めるが、憲房は政氏の子で顕実の甥の[[足利高基]]を味方につけ対抗し、古河公方を巻き込み関東は2分された。
 
永正5年([[1512年]])、顕実は[[長尾顕方]]や[[成田顕泰]]らの支援を受けて[[武蔵国|武蔵]][[鉢形城]]に拠ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・政氏を頼って[[古河城]]へと逃亡した。
関東管領職は顕定の[[養子]]である[[上杉顕実]]が継承するが、同じく養子である憲房はこれを不服とし[[横瀬景繁]]・[[長尾景長]]らの支援を受け[[家督]]を争う。顕実は実兄の[[古河公方]][[足利政氏]]に援助を求めるが、憲房は政氏の子で顕実の甥の[[足利高基]]を味方につけ対抗し、古河公方を巻き込み関東は二分された。
 
永正8年([[1515年]])、顕実の死によって終焉。関東管領職も憲房が継いだが、この内紛で弱体化した山内上杉家は[[長尾景春]]の離反を招き、[[扇谷上杉家]]の[[上杉朝興]]や相模[[後北条氏|北条氏]]の[[北条氏綱]]、甲斐[[武田氏]]の[[武田信虎]]などと争うこととなる。
1512年、顕実は[[長尾顕方]]や[[成田顕泰]]らの支援を受けて武蔵[[鉢形城]]に拠ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・政氏を頼って[[古河城]]へと逃亡した。
 
=== 古河公方家の内紛 ===
1515年、顕実の死によって終焉。関東管領職も憲房が継いだが、この内紛で弱体化した山内上杉家は[[長尾景春]]の離反を招き、[[扇谷上杉家]]の[[上杉朝興]]や相模[[後北条氏|北条氏]]の[[北条氏綱]]、甲斐[[武田氏]]の[[武田信虎]]などと争うこととなる。
[[古河公方]][[足利政氏]]と嫡男の高氏(後の[[足利高基|高基]])が古河公方の地位を争う。永正6年の対立では顕定の調停で和解したが、永正7年の顕定敗死後の山内上杉家の後継ぎを巡り、再び対立。政氏に[[岩城常隆 (下総守)|岩城常隆]]・[[岩城由隆|由隆]]父子・[[佐竹義舜]]・[[小山成長]]が、高基に[[宇都宮成綱]]・[[結城政朝]]が加わり、関東各地で戦闘が続発した。さらに政氏の次男・[[足利義明|義明]]が[[下総国|下総]]で[[小弓公方]]として独立してしまう。
 
永正5年、高基が政氏を[[出家]]させ、政氏が[[武蔵国]]久喜の館に[[隠居]]することで収束したが、これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、[[後北条氏]]が関東に着々と進出してくるのである。
==[[古河公方家]]の内紛(1506年 - [[1509年]]及び1510年 - [[1512年]])==
[[古河公方]][[足利政氏]]と嫡男足利高氏(後の[[足利高基|高基]])が古河公方の地位を争う。
一時は和解したが、1510年の上杉顕定敗死後の後継ぎを巡り、再び対立。高基は一時、妻の実家である[[宇都宮氏]]ののもとに身を寄せ[[宇都宮成綱]]の援助を得、さらに政氏の次男・[[足利義明|義明]]とも対立し、[[小弓公方]]として独立されてしまう。1512年、高基が政氏を[[出家]]させ[[武蔵国]]久喜の館に[[隠居]]することで収束した。
 
=== 越中神保氏討伐 ===
これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、[[後北条氏]]が関東に着々と進出してくるのである。
永正17年([[1521年]])、長尾為景が父・[[長尾能景]]を死においやった[[神保慶宗]]を[[能登国|能登]]守護[[畠山義総]]とともに攻め滅ぼす。「越中永正の乱」とも。
 
==[[越中国|越中]][[神保氏]]討伐([[1519年]] - [[1522年]])==
長尾為景が父・[[長尾能景]]を死においやった[[神保慶宗]]を[[能登国|能登]]守護[[畠山義総]]とともに攻め滅ぼす。「越中永正の乱」とも。
 
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