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一行は[[1909年]][[10月24日]]パリに帰着したが、意外にも[[エドゥアール・シャヴァンヌ]]ら極東学院の同僚たちから、公金を浪費して偽造文書を持ち帰ったと激しい非難を浴びた。彼らはすでに英国のオーレル・スタインが[[敦煌文書]]を持ち去った後には何も残されていなかったと考えていたからである。しかし[[1912年]]にオーレル・スタイン卿が探検旅行記を出版し、敦煌にはまだ大量の文書が残されていたと公表したため、ペリオの疑惑は晴れた。
 
その後、「[[莫高窟|敦煌千仏洞]]」など多くの研究書を発表して東洋学に大きな影響を与え、[[第一次世界大戦]]中はフランス武官として[[北京市|北京]]に滞在し、[[1945年]]にパリで[[悪性腫瘍|ガン]]のため死去した。「ペリオがいなければ、[[中国学]]は孤児のままだっただろう」とさえ、評価されている。パリの[[ギメ美術館]]にはペリオにちなんだギャラリーがあり、彼が将来した文書の多くは[[フランス国立図書館]]に保存されている。
 
== 日本語文献 ==
*『西域美術 ギメ美術館 ペリオ・コレクション』 全2巻 
:ジャック・ジエス編、[[講談社]]、1994-95年、大著
*『フランス[[東洋学]]ことはじめ ボスフォラスのかなたへ』
:菊地章太 <研文選書98>[[研文出版]]、2007年、入門書 
 
== 外部リンク ==