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'''江戸時代'''('''えどじだい''')は、[[江戸幕府]]によって[[日本]]が統治されていた時代である。[[慶長|慶長8年]](西暦[[1603年]])[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]に[[徳川家康]]が[[征夷大将軍]]に任ぜられ[[江戸]](現在の[[東京]])に[[幕府]]が開かれた時を始まりとし、[[慶応 (元号)|慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1867年]][[11月15日]])[[大政奉還]]するまでの264年間を指す。
 
== 概要 ==
=== 江戸時代初期 ===
[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと自領である江戸の地に幕府を開き、ここに[[江戸幕府|徳川幕府]]が誕生する。豊臣政権崩壊後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の役|大阪の陣]]により[[豊臣氏]]とそれを担いで騒乱を期待する勢力を一掃。長く続いた政局不安は終わった。
 
[[江戸幕府|徳川幕府]]は徹底的な政局安定策をとり、[[武家諸法度]]の制定や[[禁中並公家諸法度]]など諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷いた。大名の多くが「所領没収」で姿を消し、全国の要所は直轄領として大名を置かず、多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割統治策を実施した。
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「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く世界史的にも驚異的な長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。
 
また、農本主義的に思われている家康だが、実際には[[織田信長|信長]][[豊臣秀吉|秀吉]]と同時代の人間であり、また信長の徹底的な規制緩和による経済振興策をその目で見てきていることからも、成長重視の経済振興派であった可能性が指摘されている。平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土・桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。
 
また江戸時代には、対外的には長崎[[出島]]以外で外国との交流を禁止する[[鎖国]]政策を採った。[[バテレン追放令]]は、既に豊臣秀吉が発令していたが、[[鎖国]]の直接的契機となったのは[[島原の乱|島原・天草の乱]]で、[[キリスト教]][[一揆]](中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結び付いたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたためであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどの旧教国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を[[海禁]]政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の[[倭寇]]をも含む海賊からの防衛及び海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の[[鎖国]]と事情が異なる面もあった。しかし日本の[[鎖国]]も中国の[[海禁]]と同じとして鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。
鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、[[東南アジア]]に多くの[[日本町]]が形成された。またタイに渡った[[山田長政]]のように、その国で重用される例も見られた。
 
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しかし[[1854年]]、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に強行上陸した[[アメリカ合衆国|米国]]の[[マシュー・ペリー|ペリー]]とやむなく交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えをみせたペリー艦隊の威力に屈し[[日米和親条約]]を締結、その後米国の例にならって高圧的に接触してきた西欧諸国ともなし崩し的に同様の条約を締結、事実上「開国」してしまった。
 
下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」<!--誰の説?-->であるという説に反したとされた、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「[[攘夷]]」運動として朝野を圧した。
[[世論]]」が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、[[京都]]の[[天皇|帝(みかど)]]の存在が500年ぶりにクローズアップされる。
このため永い間、幕府の方針もあり政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となり、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。
 
一時は井伊大老の強行弾圧路線([[安政の大獄]])もあり不満「世論」も沈静化するかに思われたが、[[桜田門外の変|井伊の横死]]後、将軍後継問題で幕府がゆれる間に事態は急速に変化する。
 
藩内改革派と保守派が藩政の主導権を争っていた[[長州藩]]では、馬関海峡を航行中の外国船を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行し、翌年相手国4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠されたり、京都における主導権争いから[[薩摩藩]]らとの間に市街戦(禁門の変)を演じたりするなど、エポックメイキングな事件を連発し、一躍幕末政局の中心的存在に躍り出る。
 
列強各国から強烈に苦情を申し入れられた幕府は長州藩を罰するため「長州征伐」を行うが[[高杉晋作]]らの組織した[[奇兵隊]]などの庶民軍の活躍に阻まれ2度にわたって失敗してしまう。折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威はこの敗北によって急速に無くなっていった。
 
薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩はこの機を逃さず一転同盟を締結([[薩長同盟]])、[[土佐藩]][[佐賀藩|肥前藩]]をも巻き込み、反政策キャンペーン<!--意味不明-->であった「攘夷」を、折から巻き起こっていた国家元首問題としての[[尊王論|尊王(勤皇)]]運動と融合させ、「[[尊皇攘夷]]運動」へと巧妙にすり替え、これを更に「倒幕」の世論へと誘導していく。
 
新将軍[[徳川慶喜]]は起死回生で[[大政奉還]]を実行する。武力によって完全に[[幕府]]を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を失ったため先手を取られた形となったが、薩長倒幕派は太政官制度を復活させ、天皇を中心とした新政府を樹立し政権の交代を宣言する。この体制変革と制度改革から[[明治維新]]へと続いていく。
 
=== 戊辰戦争 ===
新政府は、[[徳川将軍家]]を一藩に降格させ[[天領]]は政府直轄領とすることを決定。[[徳川慶喜]]には天領の返還と3世紀前の旧領である[[駿河国|駿河]]([[駿府藩|静岡]])への立ち退きを要求した。しかし応諾の回答は無かったため、[[板垣退助]]を総司令官とする官軍を江戸へ東征させることを決定。[[戊辰戦争]]と呼ばれるこの[[内戦]]は、[[越後長岡藩]][[会津藩]]等各地で大規模な戦闘が行われたものの、[[江戸城]]は無血開城されるなど、大都市を巻き込んだ大きな戦争とはならなかった。最後は[[榎本武揚]]等が函館に立てこもって抗戦したが短期間で終結した。
 
== 年表 ==