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[[アリゾナ大学]]在籍時から[[アメリカンフットボール]]選手として名を馳せ、卒業後は[[カナディアン・フットボール・リーグ|CFL]]の[[エドモントン・エスキモーズ]]に在籍しつつ、[[カルガリー]]で[[スチュ・ハート]]のコーチを受け[[1952年]]からプロレスラーとしても活動を開始。[[1954年]]よりプロレスに専念するようになる。以降、[[キラー・コワルスキー]]、[[ジョニー・バレンタイン]]と並んで「ポーランド系の三凶鬼」として畏怖された。
 
[[1961年]][[7月7日]]、[[セントポール]]で[[バーン・ガニア]]を破り第3代[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー級王者]]となり、[[1965年]][[8月21日]]には[[インディアナポリス]]で[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]を下しWWA世界ヘビー級王座も獲得した。この間、[[1964年]]には[[日本プロレス]]の[[ワールドリーグ戦]]に初来日、[[豊登道春|豊登]]と決勝戦で戦ったほか、[[サイクロン・ネグロ|カリプス・ハリケーン]]とのコンビで豊登&[[吉村道明]]から[[アジアタッグ王座]]を奪取。2週間で豊登&[[ジャイアント馬場]]に奪回されるが、これが馬場にとって国内初タイトルとなった。
 
[[1966年]][[1月7日]]、[[セントルイス]]の[[キール・オーディトリアム]]で[[ルー・テーズ]]を破り第45代[[NWA世界ヘビー級王座|NWA世界ヘビー級王者]]となる。団体として全盛期にあった際の[[AWA世界ヘビー級王座]]と[[NWA世界ヘビー級王座]]の双方を獲得したのは偉大な記録である。[[1967年]]には王者として[[日本プロレス]]に登場、[[ジャイアント馬場]]の[[インターナショナル・ヘビー級王座]]に挑戦(NWA王座は懸けていない)。[[8月14日]]に[[大阪球場]]で行われた一戦は、馬場が後年自身のベストマッチに選ぶほどの名勝負となった。
 
[[1969年]]2月、[[ドリー・ファンク・ジュニア]]に敗れてNWA王座転落。[[1970年]]にはジャイアント馬場を破りインターナショナル王者となっている。[[1975年]]には[[全日本プロレス]]の[[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]に登場し決勝戦で馬場に敗退。現役選手としての最後の来日は[[1979年]]4月だった。
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[[1993年]]、ジャイアント馬場5000試合達成記念試合のスペシャルゲストとして来日。
 
[[1999年]][[5月2日]]にはジャイアント馬場没後の「引退記念試合」に際し、馬場&[[ザ・デストロイヤー]]の対戦相手として[[ブルーノ・サンマルチノ]]と共に指名され来日。自身が生前の馬場と戦っている映像が流れた際には、皆が静観する中で一人握り締めた拳を振りかざしていた。その後の挨拶で「ババ、君は偉大なスポーツマン、レスラー、アスリートであり、本物のプロフェッショナル・レスラーだった。私は君と日米で闘えたことを誇りに思う」と馬場を称えた。
 
[[2000年]]秋には全日本プロレスの分裂による[[三冠ヘビー級王座|三冠王者]]空位を受けて行われた「新三冠王者決定トーナメント」の立会人として来日している。
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[[Category:カナダのプロレスラー]]
[[Category:日本プロレス]]
[[Category:全日本プロレスに参戦した外国人プロレスラー]]
[[Category:プロレス・エグゼクティブ]]
[[Category:CFL選手]]