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紀元前300年、アルシノエという漁村であった。のち、サラミス撤退により小さな港町となった。
 
[[1192年]]、島の支配が[[フランス]]のリュジニャン家に移ったことが大きな転換点となる。東地中海で天然の良港を持ち、町を守る城壁を擁し、中東と西ヨーロッパの中継点として栄え、人口が増えた。[[1291年]][[アッコン]]陥落ののち、オリエントのキリスト教国で最も裕福な都市の一つとなった。[[1372年]]に[[ジェノヴァ共和国]]が、[[1489年]]に[[ヴェネツィア共和国]]がその富を狙い港を襲撃している。裕福な商人たちはそろって教会を寄進して建て、これらは今も残り、ファマグスタが教会地区と知られる所以となった。
 
[[1570年]]から[[1571年]]にかけ、ファマグスタは[[オスマン軍]]による13ヶ月の包囲と恐ろしい砲撃に耐えた。陥落後、町はオスマン帝国の一都市として変貌し、唯一残った大聖堂は[[モスク]]にされた([[ラーラ・ムスタファ・パシャ・モスク]])。
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[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]の結果、[[イギリス]]がキプロス島の施政権を獲得したため、ファマグスタはイギリスの支配下となった。トルコ系住民は旧市街、ギリシャ系住民はヴェロシャ地区と棲み分けがされていた。[[第二次世界大戦]]中、町には[[ホロコースト]]から生還した[[ユダヤ人]]5万人を収容するキャンプが置かれた。彼らはイギリス領[[パレスティナ]]へ移住した。
 
[[ファイル:Varoscha.jpg|thumb|250px|海岸沿いのヴェロシャ地区。[[1970年代]]初頭は次次にビルの建つ観光地であったが、1974年以来ゴーストタウンとなっている]]
[[1960年]]の独立から、[[1974年]]の[[トルコ軍]]の侵攻まで、ファマグスタは文化・経済の両面で繁栄した。夏季には西欧諸国からの旅行者が加わり、町の人口が9万人から10万人弱まで増えたという(1974年の町の人口は3万9千人)。1974年8月14日のトルコ軍侵攻後、ヴェロシャ地区は軍に封鎖され、2万6,500人のギリシャ系住民は町から脱出できたものの、帰還は許されなかった。当時町に入れたジャーナリストによれば、品物を抱えたまま閉鎖されたデパートや、空っぽのホテルが残る、ゴーストタウン状態であったという。