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{{Main|川中島の戦い}}
[[ファイル:Sengoku period battle.jpg|thumb|180px|第四次川中島の戦い]]
天文22年([[1553年]])4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた[[上杉謙信|長尾景虎]](上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる('''第1次[[川中島の戦い]]''')。このとき景虎その強さを見せつけられ、武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて[[大井信広]]が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
 
信玄は信濃進出に際して敵対していた駿河今川氏と相模北条氏の和睦を進めており、天文23年([[1554年]])には嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を[[北条氏康]]の嫡男[[北条氏政|氏政]]に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄が仲介して婚姻を結び[[甲相駿三国同盟]]が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との[[甲相同盟]]は相互に出兵し軍事同盟として機能した。
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弘治3年(1557年)には将軍[[足利義輝]]による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。また、この頃には出家しており、翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。
 
信玄は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、[[永禄]]4年([[1561年]])の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われ{{誰}}、武田方は信玄の実弟である武田軍副将[[武田信繁]]をはじめ武田家重臣[[諸角虎定]]、武田軍[[軍師]][[山本勘助]]、[[三枝守直]]ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷した。越後軍の強さの前に、信玄は信濃北辺の制圧を断念することになる
 
第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。永禄7年([[1564年]])にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている('''第5次川中島の戦い''')。