「豊臣秀勝」の版間の差分

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| 死没 = [[文禄]]元年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[1592年]][[10月14日]])
| 改名 = 小吉(幼名)、羽柴秀勝
| 別名 = 丹波少将、丹波中納言、岐阜宰相(通称)
| 諡号 =
| 神号 =
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| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = 左近衛権少将、権中納言、従四位下[[参議]]
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[豊臣秀吉]]
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== 経歴 ==
秀吉の[[九州征伐]]や[[小田原征伐]]に従軍し軍功をあげる。天正13年([[1585年]])、病死した[[羽柴秀勝]](信長の子)の遺跡を相続し、[[丹波国]][[亀山城 (丹波国)|亀山城]]主となる。[[天正]]15年([[1587年]])、[[九州征伐]]に従軍したが、戦後に知行不足を訴えたため、秀吉の怒りをかって所領を没収された。間もなく秀吉に罪を許されて[[蜂屋頼隆]]の遺領5万石を引き継ぎ、[[敦賀城]]主となる。
 
[[天正]]15年([[1587年]])、[[九州征伐]]に従軍したが、戦後の論功行賞で知行の不足を訴えたため、秀吉の怒りをかって所領を没収された。天正17(1589年)、秀吉に罪を許されて[[蜂屋頼隆]]の遺領5万石を引き継ぎ、[[敦賀城]]主となったといわれているが、同年に秀吉は敦賀城を[[大谷吉継]]に与えているため定かではない。
[[天正]]18年([[1590年]])、[[小田原の役]]に従軍し、その戦功によって7月には関東に転封された[[徳川家康]]の備えとして[[甲斐国|甲斐]]・[[信濃国|信濃]]2か国を与えられ、[[躑躅ヶ崎館]]に移る。短期間であるため甲斐・信濃支配の史料は少ないが、[[郡内地方]]や河内における[[検地]]の実施を試みており、寺社への寺領安堵や禁制、諸役免除なども行っている。天正19年([[1591年]])3月には[[美濃国]][[岐阜城|岐阜]]への転封となり、甲斐は[[加藤光泰]]に与えられている。
 
[[天正]]18年([[1590年]])、[[小田原の役]]に従軍し、その戦功によって7月には関東に転封された[[徳川家康]]の備えとして[[甲斐国|甲斐]]・[[信濃国|信濃]]2か国を与えられ、甲斐の[[躑躅ヶ崎館]]に移る。
[[文禄・慶長の役|文禄の役]]には大将として出陣するが、[[巨済島]]にて病没する。秀吉の正室[[高台院]]の甥[[小早川秀秋|豊臣秀俊(小早川秀秋)]]が遺跡を相続した。
 
[[天正]]18年([[1590年]])、[[小田原の役]]に従軍し、その戦功によって7月には関東に転封された[[徳川家康]]の備えとして[[甲斐国|甲斐]]・[[信濃国|信濃]]2か国を与えられ、[[躑躅ヶ崎館]]に移る。短期間であるため甲斐・信濃支配の史料は少ないが、[[郡内地方]]や河内における[[検地]]の実施を試みており、寺社への寺領安堵や禁制、諸役免除なども行っている。天正19年([[1591年]])3月には[[美濃国]][[岐阜城|岐阜]]への転封となり、甲斐は[[加藤光泰]]に与えられている。文禄元年([[1592年]])、従四位下参議に任じられ、「岐阜宰相」と呼ばれる。
 
[[文禄・慶長の役|文禄の役]]には8000の兵を率いて、[[細川忠興]]とともに大将として出陣するが、[[巨済島]]にて病没する。秀吉の正室[[高台院]]の甥[[小早川秀秋|豊臣秀俊(小早川秀秋)]]が遺跡を相続した。
 
== 関連項目 ==