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'''道中奉行'''(どうちゅうぶぎょう)は、[[江戸幕府]]における職名のひとつ。
 
[[五街道]]とその付属街道における[[宿場]]駅の取締りや公事訴訟、[[助郷]]の監督、道路・橋梁など道中関係全てを担当した。
 
初見は『吏徴別録』の[[寛永]]4年([[1632年]])12月にある[[水野守信]]ら4名の任命の記事であるが、一般的には[[万治]]2年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1659年]][[9月5日]])に[[大目付]][[高木守久]]が兼任で就任したのにはじまるとされる。大目付兼帯1名として始まったが、[[元禄]]11年([[1698年]])に[[勘定奉行]][[松平重良]]が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から1名ずつ兼帯する2人制となった。[[弘化]]2年([[1845年]])より大目付のみの兼帯。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])から[[享保]]9年([[1724年]])までは[[与力]]2騎、[[同心]]10人が配属され、配下に[[勘定組頭]]の兼職である道中方が置かれていた。
その[[役料]]は[[享保]]8年([[1723年]])から年に3000石、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])以後は年間金250両。
 
その[[役料]]は[[享保]]8年([[1723年]])から年に3000石、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])以後は年間金250両。
 
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