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== 生涯==
=== 家督相続・越後統一 ===
[[画像:Uesugi kenshin.jpg|200px|thumb|上杉神社内にある上杉謙信像]]<!-- 肖像画を変えませんか? -->
[[画像:KasugayamaCastle-print.jpg|thumb|200px|[[春日山城]]]]
 
[[享禄]]3年([[1530年]])1月21日、[[越後国|越後]][[守護代]]・[[長尾為景]]の四男(または三男とも)・'''虎千代'''として[[春日山城]]に生まれる。
 
[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に兄の[[長尾晴景]]が[[家督]]を継ぎ、虎千代は城下の[[林泉寺 (上越市)|林泉寺]]に[[入門]]して[[住職]]の[[天室光育]]の教えを受けたとされる。実父と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。天文12年([[1543年]])8月15日に元服して'''長尾景虎'''と名乗り、[[中越]]の長尾家領統治のため[[栃尾城]]に入る。
 
当時、越後では[[守護]][[上杉定実]]が[[伊達稙宗]]の子・時宗丸([[伊達実元]])を[[婿養子]]に迎える件で[[天文の乱|内乱]]が起こっており、越後の[[国人]]衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。景虎は[[元服]]した同年、病弱な晴景を侮り反乱を起こした越後の[[豪族]]を討伐することで[[初陣]]を飾った([[栃尾城の戦い]])。
 
天文15年([[1546年]])には[[黒滝城]]主の[[黒田秀忠]]が[[長尾氏]]に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として[[黒田氏]]攻撃滅ぼ指揮て降伏させた([[黒滝城の戦い]])。しかし秀忠が再び兵を挙げるに及び再び攻め寄せ、二度は許さず[[黒田氏]]を滅ぼした。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。
 
天文17年([[1548年]])、定実の調停のもと、12月30日、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後[[守護代]]となる。
 
2年後の天文19年([[1550年]])には、定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・[[足利義輝]]は景虎の越後国主の地位を認めた。同年、一族の[[坂戸城]]主・[[長尾政景]](上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。しかし景虎は翌年天文20年([[1551年]])1月、政景方の[[発智長芳]]の居城を攻撃し、これに勝利([[広瀬郷の戦い]])。さらに坂戸城を包囲・降伏させることで、これを鎮圧した([[坂戸城の戦い]])。降伏した政景は景虎の姉・[[仙桃院]]の夫であったこと等から助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。これにより景虎は越後統一を成し遂げた。
 
=== 第一次~第三次川中島の戦い ===
{{Main|川中島の戦い}}
天文年間には[[甲相駿三国同盟]]を背景とした[[甲斐国]]の[[武田信玄|武田晴信]]による[[信濃侵攻]]と[[相模国]]の[[北条氏康]]による北関東侵攻が本格化しており、[[甲相同盟]]により相互に出兵した両者の侵攻により、景虎は二正面作戦を余儀なくされる。氏康による攻勢を受けていた[[上野国|上野]][[平井城]]に拠る関東管領の[[上杉憲政]]が、越後に対して救援を求めると景虎はただちに出兵して北条軍を破り、憲政を平井城へ戻した。越後の隣国・上野へ力を伸ばす北条氏は、越後の安全を確保する上でも脅威だったためである。
 
天文21年([[1552年]])1月、上杉憲政を越後に迎える。4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される<ref>叙任の月日は、[[上杉家御年譜]]一・謙信公では4月23日、[[上杉家文書]]・上越七三では5月26日(大覚寺義俊の斡旋による)としている。尚、[[歴名土代]]には記載なし。</ref>8月には関東に派兵し、[[上野国|上野]][[沼田城]]を攻める北条軍と交戦。
天文22年([[1553年]])9月、上洛して[[後奈良天皇]]および[[室町幕府]]第13代将軍・足利義輝に拝謁している。
 
同年、武田晴信の信濃侵攻によって領地を追われ、信濃守護[[小笠原長時]]に加え、晴信と激しく戦った[[村上義清]]や景虎の叔父である[[高梨政頼]](景虎の叔父)らの信濃国人が領地復権を望んで景虎のもとへ逃亡してくると、。そのため8月にはこれに応じて信濃に出兵し、八幡と布施の戦いで武田軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。さらに武田領内へ深く侵攻し[[荒砥城]]・[[虚空蔵山城]]等、武田方の諸城を攻め落としたその後これ川中島(対し晴信は本陣を[[長野市塩田城]]南郊)で晴信と対峙するに置き決戦を避けたため、9月に景虎は軍を越後へ引き上げた('''第一次[[川中島の戦い]]''')。
 
天文22([[1553年]])9月初めての上洛を果た[[後奈良天皇]]および[[室町幕府]]第13代将軍・[[足利義輝]]に拝謁している。
天文23年([[1554年]])、家臣の[[北条高広]](きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年([[1555年]])には自らが出陣して高広の居城・[[北条城]](きたじょうじょう)を包囲し、これを鎮圧した([[北条城の戦い]])。高広は帰参を許される。4月、晴信と川中島の犀川を挟んで再び対峙('''第二次川中島の戦い''')。しかし小競り合いに終始して決着はつかず、対陣5ヶ月に及び最終的には[[駿河国]]の[[今川義元]]の仲介のもとに、景虎側に有利な条件での和睦に成功したため軍を引き上げた。
 
天文23年([[1554年]])、家臣の[[北条高広]](きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年([[1555年]])には自らが出陣して高広の居城・[[北条城]](きたじょうじょう)を包囲し、これを鎮圧した([[北条城の戦い]])。高広は帰参を許される。4月、晴信と川中島の犀川を挟んで再び対峙('''第二次川中島の戦い''')。しかし小競り合いに終始して決着はつかず、対陣5ヶ月に及び最終的には[[駿河国]]の[[今川義元]]の仲介のもとに、武田方の[[旭山城]]を破却する等、景虎側に有利な条件での和睦に成功したため軍を引き上げた。
ところが[[弘治_(日本)|弘治]]2年([[1556年]])6月、家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れ果てたためか、突然出家することを宣言し、[[高野山]](一説に[[比叡山]])に向かう。しかしその間、晴信に内通した家臣[[大熊朝秀]]が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は自ら軍を率いて出陣。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る([[駒帰の戦い]])。
 
ところが[[弘治_(日本)|弘治]]2年([[1556年]])6月、家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れ果てたためか、突然出家することを宣言し、[[高野山]](一説に[[比叡山]])に向かう。しかしその間、晴信に内通した家臣[[大熊朝秀]]が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は自ら軍を率いて出陣。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る([[駒帰の戦い]])。
弘治3年([[1557年]])4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する('''第三次川中島の戦い''')。武田領奥深くに侵攻し、[[山田城 (信濃国)|山田城]]等の城を攻め落としたものの、晴信は決戦を避けた。その後に上野原で両軍は対陣するも武田軍とは睨み合いに終始し、さらに[[越中国]]で[[一向一揆]]が起きたため、軍を引き上げた。
 
弘治3年([[1557年]])4)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の[[葛山城]]を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し高梨政頼の居城・[[飯山城]]を攻撃した。4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する('''第三次川中島の戦い''')。武田領内へ奥深く侵攻し、[[山田城 (信濃国)|山田城]]等の城を攻め落としたものの、晴信は決戦を避けた。その後に上野原で両軍は対陣するも武田軍とは睨み合いに終始し、さらに[[越中国]]で[[一向一揆]]が起きたため、軍を引き上げた。弘治4年(1558年)、将軍義輝から上洛要請があり、翌年上洛することを伝える。
=== 小田原城攻め・関東管領就任 ===
[[永禄]]2年([[1559年]])4月、再度上洛して[[正親町天皇]]や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から[[管領]]並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である[[大舘晴光]]を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し[[三好長慶]]の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。この年、関東では[[下野国]]の堅城[[唐沢山城]]が、北条氏康によって派遣された[[北条氏政]]率いる3万5千の大軍により包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撃退。永禄3年([[1560年]])3月、越中へ初めて出陣し、[[神保長職]]の居城・[[富山城]]を落城させる。さらに長職が逃げのびた堅固な[[増山城]]も攻め落して逃亡させ、[[椎名康胤]]を援けた。
 
=== 小田原城攻め・関東管領就任 ===
5月、北条氏康を征伐するため関東へ出陣し[[厩橋城]]・[[沼田城]]・[[岩下城]]・[[那波城]]など北条方の諸城を次々に攻略、厩橋城で越年する。年が明けると軍を率いて上野から武蔵、さらに氏康の居城・[[小田原城]]を目指し相模国にまで侵攻。総大将が政虎である上に兵力差が大きく、野戦に利なしと悟った氏康は小田原城や滝山城など[[武蔵国]]や相模国の諸城へ退却し篭城する。永禄4年([[1561年]])3月に関東管領・上杉憲政を擁して、[[宇都宮広綱]]、[[佐竹義昭]]、[[小山秀綱]]、[[里見義弘]]、[[小田氏治]]、[[那須資胤]]、[[太田資正]]、[[三田綱秀]]、[[成田長泰]]ら旧上杉家家臣団を中心とする10万の大軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲('''[[小田原城の戦い]]''')。小田原城で籠城する氏康を窮地に追い込む。
[[永禄]]2年([[1559年]])4月、再度上洛して[[正親町天皇]]や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から[[管領]]並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である[[大舘晴光]]を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し[[三好長慶]]の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。この年、関東では[[下野国]]の堅城[[唐沢山城]]が、北条氏康によって派遣された[[北条氏政]]率いる3万5千の大軍により包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撃退。永禄3年([[1560年]])3月、越中へ初めて出陣し、[[神保長職]]の居城・[[富山城]]を落城させる。さらに長職が逃げのびた堅固な[[増山城]]も攻め落して逃亡させ、[[椎名康胤]]を援けた。
 
永禄3年([[1560年]])3月、越中の[[椎名康胤]]が[[神保長職]]に攻められ、景虎に支援を要請する。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、すぐに長職の居城・[[富山城]]を落城させる。さらに長職が逃げのびた[[増山城]]も攻め落して逃亡させ、康胤を援けた。
また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた[[古河御所]]を制圧し、北条氏に擁された[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]を放逐のうえ[[足利藤氏]]を替りに[[古河御所]]内に迎え入れた。
 
5月、北条氏康を征伐するため関東へ出陣し[[厩橋城]]・[[沼田城]]・[[岩下城]]・[[那波城]]など北条方の諸城を次々に攻略、厩橋城で越年する。年が明けると軍を率いて上野から武蔵、さらに氏康の居城・[[小田原城]]を目指し相模国にまで侵攻。総大将が政虎である上に兵力差が大きく、野戦に利なしと悟った氏康は相模の小田原城や[[玉縄城]]、武蔵の滝山城など[[武蔵国河越城]]や相模国の諸城などへ退却し篭城する。永禄4年([[1561年]])3月に関東管領・上杉憲政を擁して、[[宇都宮広綱]]、[[佐竹義昭]]、[[小山秀綱]]、[[里見義弘]]、[[小田氏治]]、[[那須資胤]]、[[太田資正]]、[[三田綱秀]]、[[成田長泰]]ら旧上杉家家臣団を中心とする10万の大軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲('''[[小田原城の戦い]]''')。小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を窮地に追い込む。
しかし小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せた上、長期に渡る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどしたため、落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後[[鎌倉]]に兵を引いた。しかし4月には、武蔵の中原を押さえる要衝[[松山城 (武蔵国)|松山城]]を北条方から奪い取った([[松山城の戦い]])。
 
また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた[[古河御所]]を制圧し、北条氏に擁された[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]を放逐のうえ[[足利藤氏]]を替りに[[古河御所]]内に迎え入れた。
この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって[[鎌倉府]]の[[鶴岡八幡宮]]において閏3月16日、[[山内上杉家]]の家督と関東管領職を相続、名を'''上杉政虎'''(うえすぎ まさとら)と改めた。もともと上杉家は[[足利氏|足利宗家]]の[[外戚]]として名門の地位にあり、'''関東管領職'''はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の[[本姓]]が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある[[佐竹氏|佐竹家]]からの養子を断られ、苦悩の末に[[越後国|越後]]の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯がある。
 
しかし小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せた上、長期に渡る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどしたため、落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後[[鎌倉]]に兵を引いた。しかし4月には、武蔵の中原を押さえる要衝[[松山城 (武蔵国)|松山城]]を北条方から奪い取った([[松山城の戦い]])。
ただし、[[藩翰譜]]によると、政虎自身が[[上杉頼成]]の[[男系]]子孫であるという記述がある。[[応仁武鑑]]や[[萩原家譜案]]にも、上杉頼成の男子([[長尾藤景]])が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど([[長尾景為|景為]]或いは[[長尾景能|景能]]の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。
 
この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって[[鎌倉府]]の[[鶴岡八幡宮]]において閏3月16日、[[山内上杉家]]の家督と関東管領職を相続、名を'''上杉政虎'''(うえすぎ まさとら)と改めた。もともと上杉家は[[足利氏|足利宗家]]の[[外戚]]として名門の地位にあり、'''関東管領職'''はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の[[本姓]]が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある[[佐竹氏|佐竹家]]からの養子を断られ、苦悩の末に[[越後国|越後]]の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯がある。
=== 第四次・第五次川中島の戦い ===
[[画像:Sengoku period battle.jpg|thumb|200px|第四次川中島の戦い]]
関東から帰国後の永禄4年([[1561年]])8月、政虎は武田信玄との雌雄を決するため、1万8,000の兵を率いて[[川中島]]へ出陣する('''第四次川中島の戦い''')。荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、[[妻女山]]に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、[[武田信繁]]・[[山本勘助]]・[[両角虎定]]・[[初鹿野源五郎]]ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えることに成功。特に信玄が最も信頼する実弟・信繁を討ち取ったことは、武田側にとって致命的な痛手となった。上杉軍の死傷者も甚大であったため痛み分けに終わったが、上杉軍の最高幹部級の武将に戦死者が一人もいないため、戦術的には上杉軍の勝利とされる。
 
ただし、[[藩翰譜]]によると、政虎自身が[[上杉頼成]]の[[男系]]子孫であるという記述がある。[[応仁武鑑]]や[[萩原家譜案]]にも、上杉頼成の男子([[長尾藤景]])が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど([[長尾景為|景為]]或いは[[長尾景能|景能]]の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。
11月、再び関東に出陣、武蔵国北部において氏康と戦う([[生野山の戦い]])。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いてこれに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。
 
小田原から越後へ帰還途上の4月、武蔵の中原を押さえる要衝[[松山城 (武蔵国)|松山城]]を攻撃。北条方の城主[[上田朝直]]の抗戦を受けるも、これを落城させる([[松山城の戦い]])。城将として[[上杉憲勝]]を残して帰国した。
直後、矛先を転じ北条に寝返った下野[[唐沢山城]]を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を陥落させるには至らなかった。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため、城主の[[佐野昌綱]]と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる([[唐沢山城の戦い]])。
 
=== 第四次・第五次川中島の戦いと北条の反撃 ===
その後、古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族[[上杉憲盛]]が北条方に降る。政虎は上野・武蔵・[[常陸国|常陸]]・下野・[[下総国|下総]]などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)。12月、将軍義輝の一字を賜り、[[諱]]を'''輝虎'''(てるとら)と改めた。
[[画像:Sengoku period battle.jpg|thumb|200px|第四次川中島の戦い]]
関東から帰国後の永禄4年([[1561年]])8月、政虎は武田信玄との雌雄を決するため、1万8,000の兵を率いて[[川中島]]へ出陣する('''第4[[川中島の戦い]]''')。荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、[[妻女山]]に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、[[武田信繁]]・[[山本勘助]]・[[両角虎定]]・[[初鹿野源五郎]]ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えることに成功。特に信玄が最も信頼する実弟・信繁を討ち取ったことは、武田側にとって致命的な痛手となった。上杉軍の死傷者も甚大であったため痛み分けに終わったが、上杉軍の最高幹部級の武将に戦死者が一人もいないため、戦術的には上杉軍の勝利とされる。
 
しかしこの間に北条氏康が関東で反撃を開始、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これをうけて政虎は11月、再び関東出陣、武蔵国北部において氏康と戦う([[生野山の戦い]])。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いたか、これに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させ、この時は松山城を守り切った。
永禄5年([[1562年]])7月と9月、越中に出陣して椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。永禄7年([[1564年]])、信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ[[蘆名盛氏]]軍を撃破。その間に信玄が信濃[[野尻城 (信濃国)|野尻城]]を攻略したが奪還し、後に川中島で再び対峙した('''第五次川中島の戦い''')。しかし信玄が輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。
 
その後、矛先古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や[[佐野昌綱]]転じ始め、武蔵国の同族[[上杉憲盛]]が北条降ってしまう。政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野[[唐沢山城]]を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を陥落させ攻略すは至らなかっ手を焼いた。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため、城主の[[佐野昌綱]]と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる([[唐沢山城の戦い]])。12月、将軍義輝の一字を賜り、[[諱]]を'''輝虎'''(てるとら)と改めた。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。
川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させることに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、[[村上氏]]・[[高梨氏]]らの旧領を回復することはできなかった。
 
=== 武田・北条連合軍との戦い ===
関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、一進一退の様相を呈した後、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。
 
永禄5年([[1562年]])、上野[[館林城]]主の[[上野赤井氏|赤井氏]]を滅ぼしたが([[舘林城の戦い]])、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。この後、越後へ帰国して7月と9月には越中に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。永禄6年(1563年)には奪い取っていた武蔵の重要拠点・松山城が武田・北条連合軍に攻撃され2月に落城。輝虎は松山城救援に向かっていたが、間に合わなかった。しかし反撃に出て要害堅固な武蔵の[[忍城]]を攻め、城主・成田長泰を降伏させる([[忍城の戦い]])。次いで長泰の弟・[[小田家時朝興]]の守る武蔵の[[騎西城]]を攻め落とす。下野に転戦て4月には堅城・唐沢山城を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の[[小山城 (下野国)|小山城]]も攻略。さらに下総にまで進出し、秀綱の弟である[[結城城]]主・[[結城晴朝]]を降伏させ、関東の諸城を次々に攻略した。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えている。閏12月に上野[[和田城]]を攻め後、この年も厩橋城で越年。永禄7年([[1564年]])、[[常陸国|常陸]]へ入り1月に小田氏治の居城・[[小田城]]を攻略。さらに下野の唐沢山城を攻め佐野昌綱を二度降伏させた。
 
同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。結局、昌綱は[[佐竹義昭]]や[[宇都宮広綱]]の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。
永禄9年([[1566年]])には再び小田城に入った小田氏治を再び降伏させるなど積極的に攻勢をかける。また、里見家が北条家に追い詰められていたため、これを救援すべく下総にまで奥深く進出、千葉氏の拠点である[[臼井城]]に攻め寄せた。だが城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの[[原胤貞]]より指揮を受け継いだ[[軍師]]・[[白井入道浄三]]の知謀の前に、結果的には撤退することとなった([[臼井城の戦い]])。
 
永禄7年([[1564年]])4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ[[蘆名盛氏]]軍を撃破。その間に信玄が信濃[[野尻城 (信濃国)|野尻城]]を攻略したが奪還し、8月には川中島で再び対峙した('''第5次川中島の戦い''')。しかし信玄が輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させることに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、[[村上氏]]・[[高梨氏]]らの旧領を回復することはできなかった。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させる。輝虎は昌綱の人質をとって帰国した。
その頃、信濃北辺の制圧を断念した武田信玄が西上野へ進出し、上杉方の長野氏や倉賀野氏を滅ぼした。永禄8年([[1565年]])9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田の上野における拠点・[[和田城]]を攻めたが成功せず。そのため輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条に降る。永禄10年(1567年)には厩橋城代・北条高広まで北条に寝返った。関東において、武田信玄と北条氏康の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は奥州進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。
 
しかしその頃、信玄が西上野へ進出し、上杉方の長野氏や倉賀野氏を滅ぼしてしまう。永禄8年([[1565年]])9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田軍の上野における拠点・[[和田城]]を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に[[越前]]守護[[朝倉義景]]が一向一揆との戦いで苦戦していため、輝虎に救援を要請している。さらに5月には将軍・足利義輝が[[三好義継]]、[[松永久秀]]の謀反により世を去った([[永禄の変]])
永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。4月、敵方となっていた北条高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。
 
=== 越中進出と越相同盟 ===
永禄11年([[1568年]])、新しく将軍となった[[足利義昭]]からも関東管領に任命された。
 
永禄9年([[1566年]])には、常陸へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を再び降伏させるなど積極的に攻勢をかける。また、里見家が北条家に追い詰められていたため、これを救援すべく下総にまで奥深く進出、千葉氏の拠点である[[臼井城]]に攻め寄せた。だが城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの[[原胤貞]]より指揮を受け継いだ[[軍師]]・[[白井入道浄三]]の知謀の前に、結果的には撤退することとなった([[臼井城の戦い]])。
この頃から次第に越中へ出兵することが多くなる。永禄11年([[1568年]])3月、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず([[放生津の戦い]])。7月には武田軍が信濃最北部の[[飯山城]]に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく、越中[[松倉城 (越中国)|松倉城]]・[[守山城 (越中国)|守山城]]を攻撃した。
 
その頃、信濃北辺の制圧を断念した武田信玄が西上野へ進出し、上杉方の長野氏や倉賀野氏を滅ぼした。永禄8年([[1565年]])9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田の上野における拠点・[[和田城]]を攻めたが成功せず。そのため輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条に降る。永禄10年(1567年)には上野厩橋城の上杉家直臣・北条高広まで北条に寝返った。関東において、武田信玄と北条氏康の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は奥州進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。
ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で[[揚北衆]](あがきたしゅう)の[[本庄繁長]]が謀反を起こしたため、越後への帰国を余儀なくされる。輝虎はまず繁長と手を組む[[出羽国|出羽]][[尾浦城]]主・[[大宝寺義増]]を降伏させ、繁長を孤立させる。すかさず11月に繁長の居城・[[本圧城]]に猛攻を加え、謀反を鎮圧した([[本庄繁長の乱]])。12月、武田と断交した[[今川氏真]]に救援を懇願される。永禄12年([[1569年]])には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・[[本庄顕長]]を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた義増の降伏により、出羽[[庄内地方]]を手にする。
 
永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。4月、敵方となっていた北条高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。輝虎は上野・武蔵・[[常陸国|常陸]]・下野・[[下総国|下総]]などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)。
永禄12年([[1569年]])3月、武田信玄への牽制、そして窮地に陥っていた関東中心部の重要拠点・下総[[関宿城]]を救うため、関東管領である輝虎は宿敵とも言える北条氏康と同盟する([[越相同盟]])。この同盟に基づき、[[北条氏照]]は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。
 
=== 越中進出と越相同盟 ===
8月、越中へ出兵し[[椎名康胤]]を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に渡り攻囲([[松倉城の戦い]])。松倉城自体は落城しなかったものの、支城の[[金山城 (越中国)|金山城]]を攻め落とす。年号が変わって[[元亀]]元年([[1570年]])1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。しかし再び越中へ出兵して松倉城を攻め、ついに攻略した。康胤は落ち延びて一向一揆と手を組み、協同して輝虎への抵抗を続ける。
永禄11年([[1568年]])、新しく将軍となった[[足利義昭]]からも関東管領に任命された。
 
この頃から次第に越中へ出兵することが多くなる。永禄11年([[1568年]])3月、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず([[放生津の戦い]])。7月には武田軍が信濃最北部の[[飯山城]]に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく、越中[[松倉城 (越中国)|松倉城]]・[[守山城 (越中国)|守山城]]を攻撃した。
この年、氏康の7男(異説あり)である北条三郎<ref>かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが関八州古戦録以外に出典がなく現在では否定されている。(長塚孝「北条氏秀と上杉景虎」戦国史研究12号他、黒田基樹氏の論文など)</ref>を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って[[上杉景虎|景虎]]という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には[[法号]]「'''不識庵謙信'''」を称した
 
ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で[[揚北衆]](あがきたしゅう)の[[本庄繁長]]が謀反を起こす([[本庄繁長の乱]])。この対応に追われため輝虎は、越後への帰国を余儀なくされる。越後軍の中でも精強で知られる揚北衆の繁長による反乱に、輝虎は苦心することになる。しかし輝虎はまず繁長と手を組む[[出羽国|出羽]][[尾浦城]]主・[[大宝寺義増]]を降伏させ、繁長を孤立させる。すかさず11月に繁長の居城・[[本圧城]]に猛攻を加え、謀反を鎮圧した([[本庄繁長の乱]])。12月、武田と断交した[[今川氏真]]に救援を懇願される。永禄12年([[1569年]])には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・[[本庄顕長]]を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた義増の降伏により、出羽[[庄内地方]]を手にする。
元亀2年(1571年)2月、再び越中へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城を落城させる。しかしその後、幾度もこの城を奪い合うことになり、越中支配をかけた富山城の争奪戦は熾烈を極めることになる([[富山城の戦い]])。
 
永禄12年([[1569年]])3月、武田信玄への牽制、そして窮地に陥っていた関東中心部の重要拠点・下総[[関宿城]]を救うため、関東管領である輝虎は宿敵とも言える北条氏康と同盟する([[越相同盟]])。この同盟に基づき、[[北条氏照]]は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。
=== 越中一向一揆・北条氏政との戦い ===
元亀2年(1571年)、長年関東の覇権を争った北条氏康が世を去り、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対する。元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・[[石倉城 (上野国)|石倉城]]を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と[[利根川]]を挟み対陣した(第一次[[利根川の対陣]])。8月、北国に矛先を転じ、越中国の一向一揆勢力らと戦い激戦の末、富山城・[[富崎城|滝山城]]を陥落させる。11月、大規模に動員した信玄と交戦状態に入った[[織田信長]]の同盟の申し出を受ける。その後、越中に出陣したが、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に悩まされ、年末まで一向一揆と戦った末に、これを制圧した。
 
8月、越中へ出兵し[[椎名康胤]]を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に渡り攻囲([[松倉城の戦い]])。松倉城自体は落城しなかったものの、支城の[[金山城 (越中国)|金山城]]を攻め落とす。年号が変わって[[元亀]]元年([[1570年]])1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。しかし再び越中へ出兵して松倉城を攻め、ついに攻略した。康胤は落ち延びて一向一揆と手を組み、協同して輝虎への抵抗を続ける。
元亀4年([[1573年]])、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。3月には未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。8月には越中と[[加賀国|加賀]]の国境付近まで進軍、一向一揆の立て籠もる[[朝日山城]]を落城させ、これにより越中の過半を制圧した。さらに江馬氏の服属で[[飛騨国]]にも力を伸ばした。
 
この年、氏康の7男(異説あり)である北条三郎<ref>かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが関八州古戦録以外に出典がなく現在では否定されている。(長塚孝「北条氏秀と上杉景虎」戦国史研究12号他、黒田基樹氏の論文など)</ref>を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って[[上杉景虎|景虎]]という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には[[法号]]「'''不識庵謙信'''」を称した
しかし同時期に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため[[天正]]2年([[1574年]])、関東に出陣して上野[[新田金山城|金山城]]主の[[由良成繁]]を攻撃、3月には[[膳山城]]・[[女淵城]]・[[深沢城]]・[[山上城]]・[[御覧田城]]を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である金山城を陥落させるに至らず。さらに武蔵国における上杉方最後の拠点である[[羽生城]]を救援するため、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることが出来ず、結局羽生城を自落させた。
 
元亀2年(1571年)2月、再び越中へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ松倉城・[[新庄城]]を落城させる。しかしその後、幾度もこのとなく富山城を奪い合うことになり、越中支配をかけた富山城輝虎と一向一揆勢力争奪は熾烈を極めることになる('''[[富山城の戦い越中大乱]]''')。
北条氏政が下総関宿城の[[簗田持助 (安土桃山時代)|簗田持助]]を攻撃するや、謙信は北条方の武蔵騎西城・忍城・[[鉢形城]]など諸城を相次いで攻めて後方かく乱を狙ったが成功せず、関宿城は降伏してしまった(第三次[[関宿合戦]])。閏11月には北条方の[[古賀公方]]・[[足利義氏]]を[[古河城]]に攻めるも、攻略出来ず。同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年([[1575年]])1月11日、養子の喜平次顕景の名を[[上杉景勝|景勝]]と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。
 
=== 織田信長越中一向一揆・北条氏との戦い ===
元亀2年(1571年)、長年関東の覇権を争った北条氏康が世を去り、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対する。元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・[[石倉城 (上野国)|石倉城]]を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と[[利根川]]を挟み対陣した(第一次[[利根川の対陣]])。8月、北国に矛先を転じ、越中国の一向一揆勢力らと戦い激戦の末、富山城・[[富崎城|滝山城]]を陥落させる。11月、大規模に動員した信玄と交戦状態に入った[[織田信長]]の同盟の申し出を受ける。その後、越中に出陣したが、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に悩まされ、年末まで一向一揆と戦った末に、これを制圧した。
天正4年([[1576年]])2月、織田信長との戦いで苦境に立たされていた[[本願寺顕如]]と講和する。このとき、[[武田勝頼]]とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする[[信長包囲網]]を築き上げたのである。
 
元亀3年(1572年)8月、越中に矛先を転じ、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆勢力らと戦い激戦となった。謙信は新庄城に本陣を置き、一揆軍の立て籠もる富山城を攻めたが、抵抗が激しく一度は兵を引く。しかし9月、[[尻垂坂の戦い]]で一向一揆に大勝。その結果、苦戦の末に富山城・[[富崎城|滝山城]]を陥落させ、年末にこれを制圧した。11月には大規模に動員した信玄と交戦状態に入った[[織田信長]]の同盟の申し出を受けている。
=== 越中・能登の平定 ===
天正4年(1576年)9月、名目上管領[[畠山氏]]が守護をつとめる越中国に侵攻して一向一揆支配下の富山城・増山城・守山城を落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の[[蓮沼城]]を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。
 
元亀4年([[1573年]])、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。3月には未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。87月に改元がなされて天正元年(1573年)8月には越中と[[加賀国|加賀]]の国境付近まで進軍、一向一揆の立て籠もる[[朝日山城]]を落城させ、これにより越中の過半を制圧した。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で[[飛騨国]]にも力を伸ばした。
同11月、[[能登国]]に進み巨城・[[七尾城]]を囲んだが、攻めあぐんで越年する。天正5年([[1577年]])、春日山に一時撤退した('''第一次[[七尾城の戦い]]''')。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。このとき、城内で[[疫病]]が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に[[遊佐続光]](能登守護代)らが謙信と通じて反乱を起こした。織田信長と通じていた[[長続連]]らは殺され、七尾城は落城し能登の傀儡国主である[[畠山春王丸]]も病により没したため、能登は上杉謙信の支配下に入った('''第二次七尾城の戦い''')。謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで[[畠山義春]]を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。
 
しかし同時期に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため[[天正]]2年([[1574年]])、関東に出陣して上野[[新田金山城|金山城]]主の[[由良成繁]]を攻撃、3月には[[膳山城]]・[[女淵城]]・[[深沢城]]・[[山上城]]・[[御覧田城]]を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である[[羽生城]]を救援するため、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかしさすがの謙信も巨大な暴れ川である上に増水していた利根川を渡ること出来ず、結局羽生城を自落させた。
また、この戦いの後、[[畠山義隆]]の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には[[畠山義続]]の子であるともされる<ref>また春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という説があるが定説にはなってはいない</ref>。
 
同じく天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の[[簗田持助 (安土桃山時代)|簗田持助]]を攻撃するや、謙信は武蔵に攻め入って後方かく乱を狙った。北条方の武蔵騎西城・忍城・[[鉢形城]]など諸城を相次いで攻めて後方かく乱を狙ったが成功せず、関宿城は降伏してしまった(第三次[[関宿合戦]])。閏11月には北条方の[[古賀公方]]・[[足利義氏]]を[[古河城]]に攻めるも、攻略出来ず。同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年([[1575年]])1月11日、養子の喜平次顕景の名を[[上杉景勝|景勝]]と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。
=== 加賀進出・織田軍との交戦 ===
一方、長続連の援軍要請を受けていた[[織田氏]]は、[[柴田勝家]]らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8,000が[[加賀国|加賀]]に向かっていた。
 
=== 織田信長との戦い ===
謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に[[末森城 (能登国)|末森城]]を落とし、9月18日には[[松波城]]を攻め落とした。9月23日、柴田勝家率いる織田軍は、[[手取川]]を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。慌てた勝家は撤退命令を出したが、さらに[[松任城]]に進軍した上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破したとされる('''[[手取川の戦い]]''')。なお、戦いの規模については諸説ある。
天正4年([[1576年]])2月、織田信長との戦いで苦境に立たされていた[[本願寺顕如]]と講和する。このとき、[[武田勝頼]]とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする[[信長包囲網]]を築き上げたのである。
 
=== 越中・能登の平定 ===
{{main2|戦いの規模|手取川の戦い}}
天正4年(1576年)9月、名目上管領[[畠山氏]]が守護をつとめる越中国に侵攻して一向一揆支配下の富山城・増山城・守山城を落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の[[蓮沼城]]を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。
 
同11月、[[能登国]]に進み、[[穴水城]]などを攻略した後、幼年の当主[[畠山春王丸]]の居城・[[七尾城]]を囲んだ('''第一次[[七尾城の戦い]]''')。しかし七尾城は難攻不落の巨城であり、攻めあぐんで越年する。天正5年([[1577年]])、春日山に一時撤退した('''第一次[[七尾城の戦い]]''')。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する('''第二次七尾城の戦い''')。このとき、城内で[[疫病]]が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に[[遊佐続光]](能登守護代)らが謙信と通じて反乱を起こした。織田信長と通じていた[[長続連]]らは殺され、七尾城は落城し能登の傀儡国主である[[畠山春王丸]]も病により没したため、能登は上杉謙信の支配下に入った('''第二次七尾城の戦い''')上杉謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで[[畠山義春]]を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。
 
また、この戦いの後、[[畠山義隆]]の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には[[畠山義続]]の子であるともされる<ref>また春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という説があるが定説にはなってはいない</ref>
 
=== 加賀進出・織田軍との交戦 ===
一方、長続連の援軍要請を受けていた[[織田氏]]は、[[柴田勝家]]らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8,000が[[加賀国|加賀]]に向かっていた。
 
謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に[[末森城 (能登国)|末森城]]を落とし、9月18日には[[松波城]]を攻め落とした。9月23日、柴田勝家率いる織田軍は、[[手取川]]を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。慌てた勝家は撤退命令を出したが、さらに[[松任城]]に進軍した上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破したとされる('''[[手取川の戦い]]''')。なお、戦いの規模については諸説ある。
 
{{main2|戦いの規模|手取川の戦い}}
 
=== 最期 ===
163

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