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===公安委員長ブル・コナー===
運動へのその強力な抵抗を通して、市政府はバーミングハム運動の成功での特筆すべき要因であった。市はその賛否両論の多い公安委員長、ユージーン・"ブル"・コナーに強力な影響を与える独特の構造を持っていた。彼はタイム誌に「大差別主義者」と描写され<ref name="time63"/>、公民権運動は共産党の謀略と信じ込み、教会が爆破された後に犯人は黒人であると言ってはばからない人物であった<ref name="isserman89">Isserman and Kazin, p.89.</ref>。1958年、警察はバス・ボイコット運動を組織した牧師を逮捕した。連邦捜査局 (FBI)が逮捕での警察の不正行為の申し立てをめぐる捜査を開始した時も、コナーはFBIに謝るつもりはなく、もし北部の連中がこれ(人種差別廃止)を無理に押し付けるなら惨事が起こるだろうと言った<ref name="time58">
{{cite journal |url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,810711,00.html |title=Birmingham: Integration's Hottest Crucible |journal=[[Time (magazine)|Time]] |date=[[1958-12-15]] |accessdate=2008-12-29}}</ref>。1961年、フリーダム・ライダーズが地元の暴徒に攻撃されている時に、コナーは警察の介入を故意に遅らせた<ref name="Garrow">Garrow, (1989) p. 169.</ref>。警察は、教会での集会で駐車した車の反則切符を切ったり、記録を取るために集会に私服で入り込んだりして、宗教的指導者と抗議運動家らに嫌がらせをした。バーミングハム消防署は実在しない火災の危険を探すことでこれらの集会を妨害した<ref>Manis, p. 162–163.</ref>。コナーは公民権運動に対してとても敵対的で、彼の行動は黒人たちを運動の支援へと駆り立たせた。 市長室での混乱はその運動に敵対するバーミングハム市政府を弱体化させた。コナーは、抗議運動に対抗しているその数ヶ月の間にいくつかの役職に立候補していて、唯一公安委員長の選挙にのみ勝ち残った。コナーの過激な保守主義は都市の進歩を総じて遅くさせると彼らは信じていたため、白人の政治的に穏健派のグループは彼を負かせようと動いた<ref>McWhorter, p. 286.</ref>。商工会議所と他の白人の実業家に支援された市民団体の戦術は成功した。1962年11月、 コナーは市長選挙で、より穏やかな人種差別主義者のアルバート・バウトウェルに敗れた。コナーと彼の支持者らは新市長の権限の受け入れを拒否した
{{cite book
|title=Dictionary of American Biography
|last=Jackson
|first=Kenneth T.
|chapter=Theophilus Eugene Connor
|edition=Supplement 9: 1971–1975
|publisher=Charles Scribner's Sons
|year=1994}}</ref>。彼らは専門用語で任期が切れるのは1963年春ではなく1965年であると主張した。この短い間、バーミングハムには二つの市政府が置かれた状態であった<ref>Cotman, p. 11–12.</ref>。
==参考文献==
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