「モンテディオ山形」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Mfatggs (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
22行目:
 
== クラブの概要 ==
[[1999年]]、Jリーグ加盟。チームの母体は[[1984年]]に結成されたNEC山形([[NEC]]の子会社である「山形日本電気」、現・[[NECセミコンダクターズ山形]])鶴岡工場サッカー部、1985年には山形工場内へ本拠地移転。[[1996年]]にチーム名をNEC山形よりモンテディオ山形へ変更。なお、チーム名の「モンテディオ」とは[[イタリア語]]の「モンテ (Monte)」(山)と「ディオ (Dio)」(神)を合わせた造語で「神の山」の意味する。[[ホームタウン]]は[[山形県]][[山形市]]、[[天童市]]、[[鶴岡市]]を中心とする全県。
 
ホームスタジアムは[[山形県総合運動公園|NDソフトスタジアム山形]]。この他、以前は[[山形市陸上競技場]]や[[鶴岡市小真木原公園陸上競技場]]でも公式戦を開催した。うち、山形市陸上競技場は練習場として現在でも使用している他に山形県総合運動公園球技場、補助競技場なども練習に使用している。更に[[1994年]]の[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]昇格時にはそれらにナイター照明設備がなかった関係で、ナイター設備がある[[山形県野球場]]で公式戦を開催した例もある。ちなみに、加入当時は[[北海道]]・[[東北地方]]において唯一の旧JFL加盟クラブであった
 
加入当時は[[北海道]]・[[東北地方]]において唯一の旧JFL加盟クラブだった。
運営法人は[[社団法人]][[山形県スポーツ振興21世紀協会]]。他のJリーグチームの運営法人が全て[[株式会社]]なのに対して、唯一の社団法人による運営法人である。年会費は法人向けとして正会員が50万円、賛助会員が5万円、個人向けとして後援会員が1万円であったが、[[2008年]]からは後援会員制度を廃止しファンクラブ制に移行。会費は年額6000円、特典としてファンマガジン「Rush」が毎月送られてくる。なお、後期からの入会については3000円となっている。
 
運営法人は[[社団法人]][[山形県スポーツ振興21世紀協会]]。他のJリーグチームの運営法人が全て[[株式会社]]なのに対して、唯一の社団法人による運営法人である。年会費は法人向けとして正会員が50万円、賛助会員が5万円。かつては個人向けとして後援会員が1万円であったが、[[2008年]]からは後援会員制度を廃止しファンクラブ制に移行。会費は年額6000円、特典としてファンマガジン「Rush」が毎月送られてくる。なお、後期からの入会については3000円となっている。
[[2009年]]のファンクラブ会費は3000円である。「Rush」の定期購読は選択制となった。
 
36 ⟶ 38行目:
[[1999年]]、Jリーグ2部制開始とともにJ2に参加。元[[湘南ベルマーレ|ベルマーレ平塚]]監督である[[植木繁晴]]が監督就任。15勝4分17敗で7位という結果だったが、最終節で[[大分トリニータ]]の昇格を阻止([[秋天の陽炎]]参照)し存在を示した。FW[[真下佐登史]]はJ2リーグ2位の18ゴールを挙げる活躍を見せた。[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では[[ヴィッセル神戸]]、[[セレッソ大阪]]のJ1勢を破りベスト8に進出。
 
[[2000年]]、第1クールは開幕5連敗とスタートダッシュに失敗し、11勝2分27敗で11クラブ中10位に終わる。しかし、この年J2所属だった[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]とは2勝2敗とし(で、第11節では浦和のJ2初黒星、第40節では、前節大分との直接対決を制し、同節ゲームの無かった大分との差を広げる意味で浦和にとって絶対に勝たなければならないゲーム(大分は第40節ゲーム無し)にて、2-1と勝利した。また、第41節では、大分にロスタイムのゴールにて引き分けに持ち込み、前年同様昇格争い中のチームの鬼門となる。
 
[[2001年]]、[[柱谷幸一]]が監督に就任。この年のリーグ戦では後半に快進撃を続け、ホームで迎える最終節で90分での勝利を挙げれば自力で[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン1 (J1)|J1]]昇格(J<!--Jリーグ理事会での承認は必要-->となる2位を確保できる状況で最終節を迎えた。しかし、注目度が異様に高まり独特な雰囲気となった会場でいつもどおりのゲーム運びができず、試合はスコアレスドローのまま90分で終了し延長戦に突入。延長戦開始前に3位の仙台がアウェーで迎えた最終節を90分間で勝利したため、この時点で仙台のJ1昇格と山形のJ2残留が決定した。惜しくも3位でリーグ戦終了するが決まり、J2残留となった
 
[[2002年]]、主力流出の影響を受けて11位と低迷。
44 ⟶ 46行目:
[[2003年]]、柱谷監督が自身の不祥事で謹慎処分を受けた影響もあって8位に終わり、柱谷はこの年限りで事実上解任された。
 
[[2004年]]は新たに[[鈴木淳 (サッカー選手)|鈴木淳]](現・[[アルビレックス新潟]]監督)を監督に迎え、再び上位に進出。4位で最終節を迎え、3位[[アビスパ福岡]]との直接対戦に勝てば[[J1・J2入れ替え戦]]に進出という状況まで粘ったが、その最終節で敗れ最終順位は4位。またもやJ1昇格の道が絶たれた(最終順位は4位)
 
[[2005年]]もシーズン後半までJ1昇格争いに加わるも、第37節から4連敗を喫するなど終盤に失速。J2リーグ5位で終了した。シーズン終了後には鈴木監督が[[アルビレックス新潟]]の新監督として事実上引き抜かれた。
51 ⟶ 53行目:
さらに[[日本サッカー協会]]参事で山形県[[米沢市]]出身の[[新藤一晴]]が常務理事に就任し、サテライトリーグへの参加をスタートさせた。しかし、チームはFW[[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]の決定力で得点力は増加したが、守備に安定感を欠いた。また怪我人も多く、開幕7試合未勝利やシーズン途中の10試合未勝利など、一時期は最下位に低迷。第44節の札幌戦で引き分けた時点でJ1昇格への可能性が早々に消滅し、最終的には8位で終了した。また、財政難で補強・有望新人の獲得が難しい状況の中、スカウト部門強化をねらい、[[鹿島アントラーズ]]元スカウト担当部長[[平野勝哉]]が強化育成部アドバイザーに就任した。
 
[[2007年]]、序盤は首位を走るなど快進撃を見せたが、怪我人の続出を補いきれない選手層の薄さと、深刻な得点力不足から急速にチームは失速。第45節で[[愛媛FC]]に1-3で敗れ、昇格の可能性が消滅した。また、樋口監督と[[島根聡一]]、[[南省吾]]両コーチの契約非更新が発表された<!--樋口はJ1[[大宮アルディージャ]]監督に就任-->
 
[[2008年]]は、[[大分トリニータ]]をJ1へ昇格させ、[[セレッソ大阪]]でJ1優勝争いを経験した[[小林伸二]]を監督に招聘。同年開催の[[北京オリンピックにおけるサッカー競技|北京オリンピック]][[サッカー日本代表|日本代表]]選手の本大会メンバーに選出されたFWの[[豊田陽平]]([[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]よりレンタル移籍)を中心とした若手選手の活躍により、仙台との[[みちのくダービー]]に9年ぶりに勝ち越すなど、シーズン中盤からはJ1自動昇格圏の2位をキープ。[[11月30日]]第44節で愛媛FCと対戦、試合終了間際の後半43分と44分に[[石川竜也]]と豊田がそれぞれゴールを挙げ、3-2で逆転勝利。2位が確定し、J2参加10年目にして悲願のJ1初昇格が決定した(翌[[12月1日]]のJリーグ臨時理事会で昇格が承認されて正式に昇格決定)。J2初年度参加10チームの中では9チームにして悲願のJ1昇格となっを果たした。
 
=== J1時代(2009年-) ===
[[2009年]]、クラブ史上初めてのJ1昇格をした1年目のシーズンは開幕前にJ1昇格の立役者である豊田が[[京都サンガF.C.]]に完全移籍するものの、セレッソ大阪から[[古橋達弥]]、[[川崎フロンターレ]]から[[植草裕樹]]、[[柏レイソル]]から[[小林亮]]を獲得、去年まで[[レンタル移籍]]だった[[宮本卓也]]と[[石川竜也]]は完全移籍となった。また、外国人枠ではブラジルから[[アンドレ・シルバ]]を、同年2月にはブラジル1部リーグの[[クルゼイロEC]]から[[フランシスコ・ジャイルソン・デ・ソウザ|ジャジャ]]を獲得した。

開幕前は他チームと比べても戦力的に劣っている為に周囲からは懐疑的な目で見られていた山形ではあったが、初めてのJ1の開幕戦となるアウェーでの[[ジュビロ磐田]]戦において、2-2の同点スコアから一気に6-2のスコアでまさかの逆転劇を演じ、開幕戦でいきなりのJ1初勝利を大量得点で飾ると周囲を驚かせた。J1初ドローは次節の[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]戦であった。優勝候補の名古屋グランパスとの試合は雪の中で行われ、両者得点を許さず0-0のドローとなった。
 
ところがその後ケガ人が続出してチームは降格圏内まで順位を下げた。その状況を打破するために[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]から[[赤星貴文]]を、[[サンフレッチェ広島]]から[[西河翔吾]]をレンタル移籍で獲得した。
65 ⟶ 69行目:
 
=== 公益法人の設立 ===
[[1999年]]からのJ2参入に向け、1996年9月、山形県サッカー協会・モンテディオ山形後援会・NEC山形による「モンテディオ山形法人設立準備室」が設置され、法人化に向けた準備を開始する。しかしながら、行政・NEC山形以外の出資企業が現れない為にJ2参入条件の一つである法人設立が難航した。1997年4月、当時のチーム運営母体であったNEC山形が法人化が実現しなかった場合の当年限りのJFL撤退を表明(但しユニフォームのスポンサー協賛は継続)し、山形県内の企業に法人化に向けた支援を求めた。
 
その後、同年5月には後に山形県副知事ならびに山形県スポーツ振興21世紀協会理事長となる[[金森義弘]]山形県教育長が積極的な行政支援を表明するなど、法人設立に向けての活動が促進され、1997年9月29日、モンテディオ山形法人設立準備室は運営母体を[[社団法人]]としてクラブを運営することを発表した。実際の法人設立は1998年2月)J。Jリーグも[[株式会社]]を運営母体と規定していた当時のJリーグ規約を改訂し、Jリーグチームとしては初となる[[公益法人]]格で[[1999年]]に発足したばかりのJ2リーグに参入を果たした。
 
=== J1昇格争い ===
[[2001年]]、J2リーグ戦はシーズン後半に快進撃を見せた山形を含めた最大6チームがJ1昇格に絡む大混戦となった。だが、[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]が第43節の[[湘南ベルマーレ]]戦に勝利してJ1自動昇格圏内の1位でJ1昇格を確定させ、最終節にJ1自動昇格圏内の2位を山形、[[ベガルタ仙台]]、[[大分トリニータ]]の3チームが勝ち点差3という接戦の中で争う事となった。そして、最終節に山形は暫定2位でホームに川崎フロンターレを迎え、90分間以内で試合に勝てばJ1昇格が確定となる2位という状況であったが、試合は0-0で90分間が終了してVゴール方式の延長戦に突入した。しかし、暫定3位だったベガルタ仙台がアウェーでJ1昇格をすでに決めている京都パープルサンガから後半のロスタイムに先制点を挙げて0-1で試合終了、これでベガルタ仙台は90分間以内に勝利を収めて2位を確定させ、山形はJ1昇格を逃した。また、J1昇格を逃した山形は延長戦の開始直後に失点して試合にも敗戦した。なお、J2リーグ戦でのVゴール方式採用はこのシーズンが最後であった
{{main|2001年J2最終節}}
 
[[2004年]]、1シーズンを通して[[川崎フロンターレ]]がJ2リーグ戦を独走し、第36節の[[水戸ホーリーホック]]戦でJ1自動昇格圏内の1位確定でJ1昇格を決め、第42節の水戸ホーリーホック戦で[[大宮アルディージャ]]も2位でJ1自動昇格圏内の2位確定でJ1昇格を決めたが、山形、[[アビスパ福岡]]、[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]を含めた残りの3チームは[[J1・J2入れ替え戦]]に出場できる3位を争う事となった。しかし、ホームでアビスパ福岡との直接対決となった最終節はアビスパ福岡が山形を降して3位を確定させ、山形は4位でシーズンを終えた。
 
=== 金森体制の終焉 ===
80 ⟶ 84行目:
その後に開かれた辞任の記者会見の席で金村は「成績不振が辞任の原因ではない」と発言したが、これでクラブの黎明期から長期に渡って続いてきた金森体制に終止符が打たれた。しかし、長年に渡る金森体制時代の基本姿勢でもあった「昇格争いをすれば観客動員が増え収入増になるはず」というずさんな経営計画が災いし、同年には約1億3000万程度の赤字を抱えてしまい、最終的にはその赤字の穴埋めをする為に『J1昇格準備金』として用意していた予算を大幅に取り崩すという深刻な事態になった。
 
今もなお、Jリーグ33クラブの中で入場料収入・広告料収入は下位クラスであり、地方自治体財政難に伴う補助金廃止など、クラブは慢性的な財政難で予断を許さない状態であり、る。これにより2007年度の課題を『観客動員数の増加』と『広告料収入の増加』に絞って取り組む方針とそれに伴った『入場料の改定(値上げ)』が発表された。
 
===「はえぬき」の撤退 ===
[[2008年]]、Jリーグ加盟の初年度からユニフォームの胸広告スポンサーを務めていた山形県農業協同組合中央会(JAグループ山形)が、広告料の値上げを希望していたクラブと金銭面で折り合わなかったために胸広告スポンサーから撤退した。JAグループ山形は山形県産のブランド米「[[はえぬき]]」の広告を掲出していたが、これが2007年シーズン限りでユニフォームの胸部分から消え、その代わりに2008年からは同じくJリーグ昇格の初年度からユニフォームの背中広告スポンサーを務めていた「[[平田牧場]]」の文字が新しくユニフォームの胸部分に入った。これにより事実上、サポーターに馴染みが深かった「はえぬきユニ」が消える事となった。ただ、JAグループ山形は胸広告から撤退こそしたものの、同年シーズンも引き続きチームスポンサーとして契約していた。
 
JAグループ山形は県内で開発された水稲の新品種「山形97号」に関し、翌[[2009年]]のJ1昇格に合わせ、再びクラブの胸スポンサーとなってPRする意向を示した。そしてJ1開幕直前の2009年[[2月23日]]、この新品種の名称が7つのネーミング候補の中から「[[つや姫]]」に選ばれると共に、急ピッチで胸ロゴの制作に着手。結局[[3月7日]]の開幕戦(対[[ジュビロ磐田]]、[[ヤマハスタジアム]])には間に合わなかったものの、[[3月14日]]のホーム開幕戦(対[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]、NDスタ)で新ユニフォームがお披露目された。但しスポンサー名儀はJAグループ単体ではなく、山形県とJAグループなど県内の農業団体から成る「『つや姫』ブランド化戦略実施本部」である。なお「つや姫」自体の市販開始は[[2010年]]秋を予定している。
 
=== マスコット決定を巡る騒動劇 ===
2005年にマスコットを作成することとなり8月公募を開始。1766点の応募より絞り込まれた3点に対するサポーター投票結果を参考に[[12月20日]]の第2回選定委員会でチームマスコットとなる1点を決定する予定だった。だが、選定委員会の席上でサポーター投票で最下位の岩石をモチーフとしたキャラクターを推す選定委員長である[[東北芸術工科大学]]教授(当時)[[上條喬久]]とそれに反発するサポーター選定委員2名との間で意見が分かれてしまい、そのために折衷案としてJリーグとしては初の異なるモチーフの2体がマスコットとして併用されることになった。ちなみに、その時の採用謝礼金の30万円は折半された。その後、[[2006年]][[1月18日]]のJリーグ実行委員会よりマスコットとしての使用が承認され、名称についても公募を行い、同年[[6月30日]]に2体の名称をそれぞれ『ディーオ』と『モンテス』にする事が発表された。
 
登場からしばらく、ディーオ、モンテス共に他チームのマスコットの様な「[[着ぐるみ]]化」はされていなかったが、[[2008年]]1月に[[東北芸術工科大学]]の生徒が卒業作品として制作したディーオの着ぐるみが登場。同年3月には[[荘内銀行]]寄贈によるモンテスのエアドームが登場した
 
=== クラブ初のJ1昇格 ===
[[1999年]]にJ2へ昇格した山形ではあったが、2001年、2004年、2005年にはJ1昇格をする機会があったものの達成する事が出来ず、結局は[[1999年]]のJ2昇格以来約10年間をJ2で過ごす事となった。しかし、J2参戦10年目となった2008年は昇格請負人とも呼ばれる[[小林伸二]]を監督に迎えて、[[豊田陽平]]、[[長谷川悠]]、[[佐藤健太郎]]、[[石井秀典]]などといった若手選手の活躍などもあってシーズン中盤から2位をキープする他、ベガルタ仙台との「みちのくダービー」を9年ぶりに勝ち越すなどの快進撃を続けた。そして、第44節にアウェーでの愛媛FCにおいて試合終了間際に3-2の逆転勝利を飾ると、ついに念願のJ1昇格を果たした。これは、J2初年度参加10チームの中では9チーム目のJ1昇格である。
 
=== モンテディオ山形フルモデルチェンジ構想 ===
115 ⟶ 119行目:
== 課題 ==
=== 人材の育成と定着 ===
運営法人は他チームの様な[[株式会社]]ではなく、Jリーグに加盟しているチームの中でも珍しい[[公益法人]](山形県スポーツ振興21世紀協会)であるので運営赤字は出ない仕組みである。しかし、逆に選手の年俸や選手補強にかけられる予算が他チームよりも限られているために高額な年俸の選手は抱えられないという一面もあり、監督経験の少ない新人監督や他チームで戦力構想外となった解雇選手やレンタル移籍の選手を獲得せざるを得ない状況である。しかし、チームはそういった人材の育成には定評があり、山形での活躍を機に他チームへと移籍していく例が多い。
 
その反面、資金的な問題から他チームに引き抜かれそうな監督や主力選手に対しては金銭面での引き留めは大変難しく、結果的に彼らの大半はそのまま好条件のチームへ引き抜かれる事となる。そため人材の流動が激しく、チームの成績もなかなか安定しない。
 
なお、自前の下部組織からトップチームへと昇格した例には、[[2000年]]に昇格した[[白井貞義]]、[[2002年]]に昇格した[[秋葉勝]]、[[2009年]]に昇格した[[佐藤永志]]がいる。
 
=== ホームスタジアムの問題 ===
[[1994年]]からホームスタジアムとして使用している[[山形県総合運動公園陸上競技場]](NDソフトスタジアム山形)は、[[1994年]]からモンテディオ山形がホームスタジアムとして使用しているスタジアムである。山形県特有の厳しい気候に長年さらされた結果、近年ではシーズン中にも度々補修工事をしなければならない程までに老朽化している<ref>[http://www.montedio.or.jp/news/news_060714_2.htm 「改修工事のお知らせ」 モンテディオ山形オフィシャルウェブサイト 2006年7月14日]</ref>。
 
その上、[[寒冷地]]であるがゆえに専用設備がきちんと整っていないスタジアムではオフシーズンに行う芝生の育成が大変難しい。例えば、前年のオフシーズンにピッチの芝生を大規模に張り替えた2005年シーズンのホーム開幕戦では、芝生が上手く根付かなかった為に選手がボールを蹴る度に芝生がめくり上がり、ピッチ上に多くの穴が空くなど試合内容にも少なからぬ影響を及ぼした。ちなみに、次節がアウェーでの試合であっ、その間に芝生を根付かせようとしたものの結局は間に合わず、ホーム2戦目([[湘南ベルマーレ]]戦)は山形のホーム扱いで福島県の[[Jヴィレッジ]]において開催された。
 
なお、天童市郊外に位置し、近辺に[[ランドマーク]]となる施設や定期バス路線が存在しないという立地条件も問題点として挙げることができられる。公共交通機関を利用する場合は鉄道を利用する場合には無人駅である[[高擶駅]]からの徒歩(所要時間約25分)、[[天童駅]]または[[山形駅]]から、ホームゲーム開催日に運行されるシャトルバスの利用が必要である。また、メインスタンドの一部を除きスタジアムには屋根が設置されておらず、夏場の厳しい日差しや風雪といった山形県特有の厳しい気候下での試合観戦を強いられる場合があり、スタジアム本体も陸上トラックが設けられているためにピッチと観客席の距離が広くなってしまっている。
 
また2009年の県内での最初の試合・[[名古屋グランパス]]戦(3月14日)のように開幕した3月に積雪のもとで試合をするケースもある。
 
=== 観客動員数の増加 ===
Jリーグ加盟当初からの長年にわたるチームの宣伝不足や「熱しづらくて冷めやすい」などと揶揄される山形県民の県民性もあってか、県民のチームに対する関心も大変低く、い。Jリーグ加盟以来、モンテディオ山形の試合観客動員数の状況は唯一の営業的なドル箱カードとなる「[[東北ダービー (サッカー)|みちのくダービー]]」以外は毎試合空席が目立つ程に深刻で、1試合の平均観客動員数はJ2でも最下位クラスの約2000~6000人の間をJリーグ加盟の年から長年推移して来た<ref>[http://www.j-league.or.jp/aboutj/managementdata/mobilization02.html Jリーグ公式サイト J2リーグ 試合観客動員数]</ref>。
 
その為、Jリーグ加盟初年度からチームのチケット収入は伸び悩み、その現状はスポンサー収入にも少なからず影響を及ぼす程であった。そのため、試合観客動員数の増加は長年に渡るチームの命題であったが、2006年にフロント陣が刷新されるまでは目立った対策をほとんど行わなかった。しかし、2006年に海保が理事長に就任してからは目標とする1試合の平均観客動員数をまずは「6000人」(2008年)と定め、更にはサポーターとクラブの合同で専門のプロジェクトチーム「B・Mミーティング」(2008年)を立ち上げた<ref>[http://mytown.asahi.com/yamagata/news.php?k_id=06000120804300001 「観客動員は苦戦中」 朝日新聞 山形県内版 2008年4月30日]</ref>。
その結果、2008シーズン第15節仙台戦(15(15,422人)のみちのくダービー、第35節広島戦(14(14,392人)・)・第41節湘南戦(11(11,345人)・第43節熊本戦(13(13,018人)における昇格争いとJリーグ加盟後となる1シーズン4ゲームの10,000人突破を記録し、シーズン目標としていた1ゲーム平均6,000人を超える6,273人を記録した。
 
== チーム成績・歴代監督 ==
426 ⟶ 430行目:
*青き旗
*Park(モンテディオ山形Ver.)
:原曲はシカゴ「Saturday In The Park」。<!--同曲をテーマ曲に使用しているTBSテレビ系土曜朝の報道番組「[[みのもんたのサタデーずばッと]]」は2005年春の改編で山形県(テレビユー山形)での放送を終了しているが、同番組が放送されていた時期に作られたものかどうかは不明。-->
*FORZA山形
*SAMBA
438 ⟶ 442行目:
*ハンドクラップ
*オレオ山形
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 関連項目 ==