「レオーン6世」の版間の差分

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このように、内政面・文化面では功績を残したレオーンだったが、外交面ではいくつか失敗を犯している。レオーンは、[[ブルガリア帝国|ブルガリア]]の[[シメオン1世]]と[[893年]]に開戦した。レオーンは当時[[ドナウ川]]北岸にいた[[マジャル人]]と同盟してブルガリアを挟撃したが、[[896年]]にはブルガロフュゴンでブルガリアに敗北して、毎年貢納金を支払う条件で和平を結んだ。なおこの時マジャル人も敗走して、現在のハンガリー平原に侵入することになる。
 
西方の領域でも敗北が続いた。[[888年]]にはミラッツォ沖で[[イスラーム]]艦隊に敗北を喫した。[[902年]]には[[シチリア島]]で事実上最後の拠点であった[[タオルミ]]が陥落した。また[[エーゲ海]]の奥深くにまでイスラーム艦隊が侵入して各地を荒らし、[[904年]]には帝国第二の都市[[テッサロニキ]]が襲撃され、多くの犠牲者を出した。イスラーム艦隊に対してレオーン6世はヒメリオスを艦隊司令官に任じて反撃を行わせた。ヒメリオスは当初大きな成果を挙げるが、[[911年]]の[[クレタ島]]遠征は完全な失敗に終わっている。また[[907年]]には[[キエフ・ルーシ]]の艦隊が[[コンスタンティノープル]]を攻撃している。一方[[アナトリア半島]]東部では帝国の領域を[[ユーフラテス川]]の東側にまで拡大し、[[テマ]]・メソポタミアを設置した。
 
レオーンには長い間後継者となる男子が生まれなかったため、私生活の面でもトラブルを起した。最初の妻テオファノが[[897年]]頃に病死すると、[[898年]]に年来の愛人のゾエ・ザウツァイナと結婚したが、ゾエは翌年病死。その後3度目の妃エウドキア・バイアナを迎えたが、レオーン自身が三度目の結婚を禁止する法律を発布していたために、教会に反対された。