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'''矢部禅尼'''(やべぜんに、[[文治]]3年([[1187年]]) - [[康元]]元年([[1256年]])[[4月20日 (旧暦)|4月10日]])は、[[鎌倉時代]]前期から中期にかけての[[三浦氏|三浦]]一族の女性。[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]、[[三浦義村]]の娘。3代[[執権]][[北条泰時]]の前妻で、4代執権[[北条経時|経時]]、5代執権[[北条時頼|時頼]]の祖母にあたる。法名は禅阿。
[[建久]]5年([[1194年]])2月に13歳の北条泰時が元服した際、[[源頼朝]]の命により[[三浦義澄]]の孫から良い娘を選んで泰時と娶せる事が
義村の娘は三浦氏[[佐原氏|佐原]]流の[[佐原盛連]]に再嫁して[[佐原光盛|光盛]]、[[佐原盛時|盛時]]、[[佐原時連|時連]]の三子を産み、夫盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。[[嘉禎]]3年([[1237年]])6月、幕府から矢部禅尼に[[和泉国]]吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した[[宝治]]元年([[1247年]])の[[宝治合戦]]では、矢部禅尼の子供達は北条氏側として戦い、のちに三浦姓を名乗って三浦家を再興している。
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