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'''アヴァクーム''' ('''Петрович Аввакум''', '''Petrovich Avvakum''',( [[1620年]]か[[1621年]]-[[1682年]][[4月24日]]))はロシアの司祭。[[旧儀派]]の始祖。
 
[[ニージニ・ノヴゴロド]]の東南に位置する[[グリゴロヴォ]]村で生まれる。[[1638年]]頃に結婚。
[[ニージニ・ノヴゴロド]]の東南に位置するグリゴロヴォ村で生まれる。[[1638年]]頃に結婚。その後村を追われて、[[1641年]]に輔祭となり、2年後に司祭となる。[[1651年]]に主僧に任じられた。モスクワのカザン聖堂に勤めていたさい、[[ニーコン]]の教会改革に強く反対し、[[1653年]][[シベリア]]に流刑された。はじめ[[ツァーリ]]の[[アレクセイ・ロマノフ (ロシア皇帝)|アレクセイ]]はアヴァクームを[[モスクワ]]に呼び返し和解させようとしたが、彼は拒否し逆にニーコンを異端と宣言した。[[1666年]]の東方教会会議において定められた、ニーコン以前の礼拝を廃するという方針に従わず[[1667年]][[6月17日]]ついに破門され、ヨーロッパ・ロシアの最北端プストゼーリエの砦に流刑された。15年間この地に幽閉されたが、節を曲げず、『主僧アヴァクーム自伝 Жизнеописания Аввакума и Епйфания [[1672年]]-[[1675年]]』を信仰を同じくするものたちへの励ましとして書き送った。この間、彼にしたがって正教会に抵抗する旧儀派が広がったため、ツァーリの勅令をもって、アヴァクームは焚刑に処せられた。
その後村を追われて、[[1641年]]に[[輔祭]]となり、2年後に[[司祭]]となる。[[1651年]]に[[主僧]]に任じられた。
 
[[ニージニ・ノヴゴロド]]の東南に位置するグリゴロヴォ村で生まれる。[[1638年]]頃に結婚。その後村を追われて、[[1641年]]に輔祭となり、2年後に司祭となる。[[1651年]]に主僧に任じられた。モスクワのカザン聖堂に勤めていたさい、[[ニーコン]]の教会[[改革]]に強く反対し、[[1653年]][[シベリア]]に[[流刑]]された。はじめ[[ツァーリ]]の[[アレクセイ・ロマノフ (ロシア皇帝)|アレクセイ]]はアヴァクームを[[モスクワ]]に呼び返し和解させようとしたが、彼は拒否し逆にニーコンを[[異端]]と宣言した。[[1666年]]の東方教会会議において定められた、ニーコン以前の礼拝を廃するという方針に従わず[[1667年]][[6月17日]]ついに[[破門]]され、ヨーロッパ・ロシアの最北端[[プストゼーリエ]]の砦に流刑された。15年間この地に幽閉されたが、節を曲げず、『主僧アヴァクーム自伝  Жизнеописания Аввакума и Епйфания Епйфания:[[1672年]]-[[1675年]]』を信仰を同じくするものたち者達への励ましとして書き送った。この間、彼にしたがって正教会に抵抗する旧儀派が広がったため、ツァーリの勅令をもって、アヴァクームは[[焚刑]]に処せられた。
彼の自伝は当時の文語である教会スラヴ語でによらず、〈わがロシア固有の言葉〉である口語が用いられ、飾り気がなく力強い筆致と人間味豊かな内容によって知られ、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]などの近代作家によって高い評価を受けることになった。
 
彼の自伝は当時の[[文語]]である[[教会スラヴ語]]でによらず、〈わがロシア固有の言葉〉である[[口語]]([[ロシア語]])が用いられ、飾り気がなく力強い筆致と人間味豊かな内容によって知られ、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]などの近代作家によって高い評価を受けることになった。
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