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太延4年([[438年]])7月、太武帝の車駕は五原に赴き、柔然を征討した。楽平王の[[拓跋丕]]・河東公の[[賀多羅]]は15名の将軍を統率して東道に、永昌王の[[拓跋健]]・宜都王の[[穆寿]]は15名の将軍を統率して西道に、車駕は中道に出た。浚稽山に至ると、さらに中道を進む軍勢を二方面に分け、陳留王の[[拓跋崇]]は大沢から涿邪山に、車駕は浚稽山から北方の天山に向かった。西方の雪山に登り、石碑に刻んで行軍の記録とした。北魏軍は柔然軍を発見せずに帰還した。この時、漠北では大旱魃が発生し、水や牧草がなくなって、多くの軍馬が死亡した。
 
太延5年([[439年]])6月、車駕は西方の[[沮渠牧犍]]を討伐した。宜都王の穆寿は[[拓跋晃]]を補佐し、平城に駐留して防衛の任務に就いた。長楽王の[[嵇敬]]・建寧王の拓跋崇の兵2万は漠南に駐留して柔然に備えた。9月、呉提は沮渠牧犍の救援に応じて北魏に侵入した。穆寿は全く防備を固めておらず、柔然軍が七介山に来ると、京邑は恐慌状態となり、城内の人々は争って中城に逃げ込んだ。[[司空]]の[[長孫道生]]は吐頽山で柔然軍を迎撃した。呉提は北魏に侵攻すると、兄の乞列帰を後方に配置して北鎮の諸軍と対峙させた。嵇敬と拓跋崇らは陰山の北で乞列帰を破り、乞列帰を捕らえた。さらにその伯父の他吾無鹿胡と将帥500人を捕らえ、一万余りの首級を斬った。呉提は乞列帰らの敗北を聞いて逃走した。長孫道生が呉提を追撃したが、漠南に至って帰還した。10月、呉提は[[南朝 (中国)|南朝]][[宋 (南朝)|宋]]に遣使を送って方物を献じた。
 
[[太平真君]]2年([[441年]])3月、北魏は郁久閭乞列帰を朔方王に封じた。