「色部安長」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目:
{{武士/開始|色部安長}}
{{武士/時代|[[江戸時代]]期}}
{{武士/生誕|[[寛文]]4年([[1664年]])}}
{{武士/死没|[[保]]15年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]([[1741年]][[89309日]])}}
{{武士/別名|又四郎(通称)、寿残斎}}
{{武士/戒名|不著院殿禅堂開基独安長慎居士}}
{{武士/墓所|千眼寺([[山形県]][[米沢市]]窪田町窪田)}}
{{武士/主君|[[上杉綱憲]]→[[上杉吉憲|吉憲]]}}
{{武士/藩|[[出羽国]][[米沢藩]][[家老]]}}
{{武士/氏族|[[長尾氏|白井長尾氏]]→[[色部氏]]}}
15行目:
{{武士/終了}}
 
'''色部 安長'''(いろべ やすなが、[[寛文]]4年([[1664年]]) - [[保]]15年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]([[1741年]][[89309日]]))は[[米沢藩]]上杉家江戸[[家老]]。通称は'''又四郎'''(またしろう)。『[[忠臣蔵]]』の物語中で[[吉良上野介邸討ち入り]]の際に実父[[吉良義央|吉良上野介]]を助けるために出兵しようとする主君[[上杉綱憲]]を押しとどめる役などで出てくることが多い。
 
== 経歴 ==
[[寛文]]4年([[1664年]])に[[上杉氏|上杉家]]重臣で侍頭[[長尾景光|長尾権四郎景光]](侍頭権四郎)の次男として[[米沢城]]下に生まれたが、[[寛文]]6年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]([[1666年]][[8月3日]])には叔父で同じく上杉家重臣の[[色部清長|色部隼人清長]](隼人)の急死のためにその養子に入り、幼くして色部家の家督を継いだ。この[[色部氏|色部家]]は桓武平氏の一つ[[秩父氏|秩父平氏]]の流れを組む[[本庄泰長|本庄長門守泰長]]が[[越後国|越後]]小泉庄色部条([[新潟県]][[村上市]](旧[[神林村]]))を[[鎌倉公方]]より賜り、色部氏を称したのにはじまる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の当主[[色部勝長|勝長]]は[[揚北衆]]の代に一員として[[上杉謙信]]に仕え、豊臣時代第四次[[川中島戦い]]で奮戦し[[血染めの感状]]を賜り、勝長の子・[[色部光長|光]][[上杉景勝]]に仕え、[[新発田重家乱]]や仙北一揆の鎮圧に活躍し、豊臣姓を賜った。さらに長真の子・[[色部光長]]は[[直江兼続]]の妹を妻に迎え、会津120万石のうち長井郡金山城1万石を持ち、のちに侍頭となった。しかし[[江戸時代]]になると[[関ヶ原の戦い]]で西軍に属した責任を責められ、上杉家は30万石に減らされたため、家臣たちの家禄もすべて三分の一に減らされ、色部家は33303333石となった。さらに[[寛文]]4年([[1664年]])に[[米沢藩]]は藩主[[上杉綱勝]]急死によって領地を30万0000石から15万0000石に減らされたため、家臣たちの家禄は半分にされ、色部家の領地はこのとき1666石となる。これが安長が受け継いだ家禄であった。
 
[[延宝]]8年([[1680年]])4月に藩主[[上杉綱憲]]が参勤交代で[[江戸]]へ行く際にお供してはじめて江戸へ入る。ときに又四郎安長17歳。以降、綱憲にお供して江戸と米沢を毎年のように行き来したが、。[[天和 (日本)|天和]]元年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1682年]][[1月13日]])に侍頭となる。[[元禄]]12年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[1699年]])1[[265]])、上杉家江戸[[家老]]に就任し、江戸在府となった。この時に妻子も米沢から江戸へ呼び寄せて、桜田の上杉家上屋敷に住ませている。江戸家老に就任した安長は窮迫する米沢藩財政の建て直しに苦心したが、特にその原因は藩主綱憲の実父[[吉良義央]]であった。浪費癖がある[[吉良義央]]は、吉良家の普請や買掛金(商人への未払い金)をすべて上杉家に支払わせた上、毎年6000石もの援助を要求したためである。この負担の大きさは、江戸勘定方須田右近が米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いているほどであった。
 
[[元禄]]15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[17021703年]])12[[11430]])に吉良邸討ち入りがあるが、[[元禄赤穂事件]]を扱ったドラマや映画・小説などでは、この際に、実父[[吉良上野介]]を救うため出兵しようとする[[上杉綱憲]]を色部安長が諫めるというシーンが多い。これは[[大佛次郎]]の小説『[[赤穂浪士]]』で[[千坂高房]]が綱憲をとめるという場面があるのが原因なのだが、千坂がこの当時すでに病没しており、江戸家老ではなかったことが判明したため、最近ではかわりにこの頃江戸家老だった色部安長に代えられたというわけである。しかし色部安長のほうも実はこの日、実父の喪中で上杉家に出仕しておらず、そのようなことはできなかった。事件を受けて翌15日に急遽出仕している。[[上杉綱憲]]の出兵を止めたのは実は家臣ではなく、親族の[[高家 (江戸時代)|高家]][[畠山義寧|畠山下総守義寧]]である。しかしこれも討ち入りの最中ではなく、討ち入り後、[[泉岳寺]]にいる赤穂浪士たちを上杉家が襲撃しないように幕府[[老中]]の下知を受けて、上杉家に派遣されただけである。
 
色部安長は、その後も長く江戸[[家老]]職にあったが、[[享保]]元年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]([[1716年]])8[[9621]])に隠居が認められて米沢に帰国した。隠居料として10人扶持を与えられて寿残斎と号す。[[寛保]]元年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]([[1741年]][[9月9日]])に死去。[[享年]]78。米沢の千眼寺に葬られた。法名は不著院殿禅堂開基独安長慎居士。
 
== 関連作品 ==