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兄は[[高野房太郎]]。[[長崎県]][[西彼杵郡]]長崎区銀屋町出身。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、[[東京大学|東京帝国大学法科大学]]卒業。大学は兄のアメリカからの仕送りで何とか卒業できたという。娘は[[宇野弘蔵]]の妻。
 
[[ミュンヘン大学]]留学後、東京帝国大学助教授。[[政治学者]]で後に東大総長となる[[小野塚喜平次]]らと[[社会政策学会 (日本 1897年)|社会政策学会]]を設立、学会内の最左派として活動した。また[[日本文化人連盟]]を結成。東京帝大では[[法学部]]からの経済学部独立に尽力し初代学部長となった。弟子には[[大内兵衛]]、[[舞出長五郎]]など、のちに著名となる多くのマルクス主義経済学者がいる。しかし彼自身はマルクス主義経済に傾倒することはなかった
 
[[1919年]]、東京帝国大学[[経済学部]]成立の年に[[国際労働会議代表反対運動|国際労働会議労働者代表派遣問題]]を巡り辞職(政府の要請によりILO代表に任命されたが、[[友愛会|大日本労働総同盟友愛会]]などは労働界から選出すべきであると非難、同じ意見を持っていた高野は本来無関係のはずであったが筋を通して日本代表とともに東大も辞任)。
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翌[[1920年]]、請われて[[法政大学大原社会問題研究所|大原社会問題研究所]]の設立に参加。設立時から没年まで所長を務める。大原社研では日本最初の[[労働者家計調査]]を実施し、[[労働問題]]の研究に専念。
 
戦後、[[鈴木安蔵]]、[[森戸辰男]]、[[馬場恒吾]]らと[[憲法研究会]]を設立、「[[憲法草案要綱]]」発表。高野は最長老として最も過激な意見を述べと言われる。この[[憲法草案要綱]]はのちにGHQで憲法草案をつくる際に参考とされ、日本国憲法との類似点が指摘される。高野はこれとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む[[日本共和国憲法私案要綱]]を発表。自身の所属する憲法研究会を含め、天皇制存続を容認する潮流を「囚われたる衆」と称して批判、[[天皇制廃止論|天皇制廃止]]を主張した。1946年[[日本放送協会|NHK]]第5代会長。1948年[[日本統計学会]]初代会長。[[日本社会党]]の顧問でもあった。
 
NHKの会長に就任した高野は[[1946年]][[4月30日]]に行われた就任挨拶で「権力に屈せず、大衆とともに歩み、大衆に一歩先んずる」とする放送のあり方を説き、民主的なNHKを目指したが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領政策が[[反共主義|反共]]に転換したこと、任期半ばにして高野自身が死去したことで挫折してしまった。
 
== 参考文献 ==
*[[高野岩三郎著、鈴木鴻一郎編]] 『かっぱの屁――遺稿集』[[法政大学出版局]]、[[1961年]]
*[[松田博]] 『NHK―問われる公共放送』 [[岩波書店]]、[[2005年]]、67-76頁。ISBN 4004309476
*[[大島清]] 『高野岩三郎伝』[[岩波書店]]、[[1968年]]
*[[松田博]] 『NHK―問われる公共放送』 [[岩波書店]]、[[2005200年]]、67-76頁。ISBN 4004309476