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== 来歴・人物 ==
[[1982年]]に[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]で[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の試合に初出場し、以後9年間プレーするもののメジャーには定着できず、以後[[シカゴ・ホワイトソックス]] - [[ボルチモア・オリオールズ]] - [[テキサス・レンジャーズ]] - モントリオール・エクスポズ(現:[[ワシントン・ナショナルズ]]) - [[ニューヨーク・メッツ]]と複数の球団を渡り歩くも、[[1983年]]のシーズンを除いてレギュラー選手としての成績は残せなかった。そして[[1991年]]に来日し、同年より阪神の選手として活躍。初の春季[[キャンプ (プロ野球)|キャンプ]]では[[川上哲治]]から「今年の外国人選手では一番すばらしい」と絶賛される。また、オマリー自身も日本野球に順応しようと、食事では[[箸]]を使うなど努力した。
 
[[1991年]]、阪神の選手として来日。初の春季[[キャンプ (プロ野球)|キャンプ]]では[[川上哲治]]から「今年の外国人選手では一番すばらしい」と評価される。[[1992年]]、前年オフに[[横浜ベイスターズ|大洋]]を解雇された[[ジム・パチョレック]]を阪神に紹介し、入団させる。このパチョレックとのコンビで、同年は[[新庄剛志]]、[[亀山努]]ら若手選手とともに低迷していた阪神2位躍進させたに貢献。[[1993年]]には[[首位打者]]のタイトルを獲得。また、ヒーローインタビューでお立ち台に上がったときの「'''ハンシンファンワ、イチバンヤァー!'''(阪神ファンは一番や!)ー!)」の絶叫決まり文句もあってファンからの人気も高かった。しかし、[[中村勝広]]監督と次第に対立するようになり、[[1994年]]オフに自由契約となった。
 
[[1995年]]、[[野村克也]]監督率いる[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]へ移籍後も主力選手として活躍、1995年には打率.307、[[打点]]87を記録、さらに両翼91m(当時両翼91mと狭かった[[明治神宮野球場|神宮球場]]を本拠地にした事で[[本塁打]]が急増、自己最多の31本の本塁打を放ち、ヤクルトチームのリーグ優勝に大きく貢献したさらに、その年のシーズン[[最優秀選手 (野球)|MVP]]、さらには[[1995年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でもMVPに輝き、チームの日本一にも大きく貢献した(参考:[[小林-オマリーの14球]])。その年のシーズン[[最優秀選手 (野球)|MVP]]を獲得。[[1996年]]外国人選手初の6年連続3割を達成するも。しかし、契約上の問題からヤクルトを退団[[テキサス・レンジャーズ]]に招待選手としてキャンプ参加するが解雇されてしまい、そのまま現役を引退。[[1998年]]にアメリカ[[独立リーグ]]、[[ニューアーク・ベアーズ]]の監督などを務めた。
非常に選球眼が優れた選手であり、「臭い球」にはめったに手を出さず、[[スプレー・ヒッター]]として鳴らした。が、守備中に[[バント]]シフトをとらないなど怠慢な守備もあった。また、常に打率で上位にランキングされていたものの、[[山本昌]]など、強力な左腕投手が登板する試合では、シーズンでも重要な試合であってさえ、ゲーム直前に突然膝の痛みなどを訴えてスタメン回避を取るなどの行動も目立った。これは露骨に打率記録の低下を嫌ったものではないかとの批判もあって、こういった「わがまま」さへの疑問が評論家やスポーツマスコミの間でも高まるようになっていった。[[中村勝広]]監督ともこういった問題で次第に対立するようになり、[[1994年]]オフに自由契約となった。
 
=== 現役引退後 ===
[[1995年]]、[[野村克也]]監督率いる[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]へ移籍。ちなみにオマリー自身は、1995年オフにゲスト出演した『[[ニュースステーション]]』で、[[久米宏]]からヤクルトへ移籍した理由を聞かれて「阪神は“子供”のチームだったから」と答えている。また、[[阪神甲子園球場]]で古巣相手に3連発したこともあり、移籍後は「'''ヤクルトファンノ、オウエンクダサイ'''(ヤクルトファンの応援ください)」がお立ち台での決め台詞だった。
[[1998年]]、アメリカ[[独立リーグ]]、[[ニューアーク・ベアーズ]]の監督などを務めた。
 
[[2001年]]、阪神春季キャンプに野村監督を表敬訪問し、その際に外国人選手へのアドバイスが高評価されて翌年の野村内閣入り阪神コーチ就任が濃厚となるが、野村監督退団に伴い破談白紙にただしかし、その際の口約束があっせいでめにベアーズ監督を辞任していたためにことから、翌[[2002年]]の春季キャンプのみの臨時打撃コーチとして古巣阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が[[星野仙一]]監督にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中も残留することチームなっ帯同した。2002〜2003年の特命コーチ時代は[[ジョージ・アリアス]]、[[トレイ・ムーア]]、[[ジェフ・ウィリアムス]]、[[ジェロッド・リガン]]らを指導するなど外国人選手の支えとなり、阪神の[[2003年]]の[[セントラル・リーグ]]優勝に貢献した。しかし、[[岡田彰布]]監督就任により、オマリー自身も星野監督、[[田淵幸一]]、[[達川光男]]各コーチとともに退任した
ヤクルト移籍後も主力選手として活躍、1995年には打率.307、[[打点]]87を記録、さらに当時両翼91mと狭かった[[明治神宮野球場|神宮球場]]を本拠地にした事で[[本塁打]]が急増、自己最多の31本を放ち、ヤクルトのリーグ優勝に大きく貢献した。さらに、その年のシーズン[[最優秀選手 (野球)|MVP]]、さらには[[1995年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でもMVPに輝き、日本一にも大きく貢献した。[[1996年]]外国人選手初の6年連続3割を達成するも契約上の問題からヤクルトを退団、[[テキサス・レンジャーズ]]に招待選手としてキャンプ参加するが解雇されてしまい、そのまま引退。[[1998年]]にアメリカ[[独立リーグ]]、[[ニューアーク・ベアーズ]]の監督などを務めた。
 
[[2004年]]から、阪神の駐米スカウトに就任。同年10月、[[ライブドアベースボール]]の監督就任を要請され受諾したが、同球団の[[日本プロフェッショナル野球組織]]への参入が無くなったため白紙に。その後も阪神の駐米スカウトとして活動したが、[[シェーン・スペンサー]]、[[ルー・フォード]]、[[ケビン・メンチ]]と獲得に携わった外国人選手が結果を残せなかった。そのため、[[2009年]]11月、阪神との契約を解除された。
[[2001年]]、阪神春季キャンプに野村監督を表敬訪問し、その際に外国人選手へのアドバイスが高評価されて翌年の野村内閣入りが濃厚となるが、野村監督退団に伴い破談。ただ、その際の口約束があったせいでベアーズ監督を辞任していたために、翌[[2002年]]の春季キャンプのみの臨時打撃コーチとして古巣阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が[[星野仙一]]監督にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中も残留することになった。特命コーチ時代は[[ジョージ・アリアス]]、[[トレイ・ムーア]]、[[ジェフ・ウィリアムス]]、[[ジェロッド・リガン]]らを指導するなど外国人選手の支えとなり、阪神の[[2003年]]の[[セントラル・リーグ]]優勝に貢献した。しかし、[[岡田彰布]]監督就任により、オマリー自身も星野監督、[[田淵幸一]]、[[達川光男]]各コーチとともに退任した。
 
== プレースタイル ==
[[2004年]]から、阪神の駐米スカウトに就任。シーズンオフ後、[[堀江貴文]]・[[ライブドア]]社長からの[[ライブドアベースボール]]監督就任要請を受諾したが、同球団の参入自体が無くなったためにそのまま駐米スカウトとして阪神に残留しており、外国人選手獲得に力をつくす一方で、キャンプ時に来日し外国人選手の指導、アドバイスや自らも打撃投手をつとめるなどコーディネーターとしても活躍している。
非常に選球眼が優れ、また投手の配球を読むことに長けた選手で、外国人選手初の6年連続3割を達成するなど、打撃面では安定した好成績を残した。しかし、守備中に[[バント]]シフトをとらないなど怠慢な姿勢も見られた。また、常に打率ランキングで上位にいたものの、[[山本昌]]などの一流左腕投手が登板する試合では、ゲーム直前に突然膝の痛みなどを訴えてスタメン回避を取るなどの行動も見られた。
 
== エピソード ==
* 1993年にはオールスターゲーム第2戦でMVPを獲得しており、外国人選手としては唯一、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターの3つでMVPを獲得している選手である。
{{出典の明記}}
* ベンチで野球帽を前後逆にかぶる、大リーグにある「逆転のおまじない」を阪神ベンチに持ち込んだ。92年のシーズンから、[[亀山努]]らナインがオマリーに倣って、揃って帽子を逆にする姿が恒例となった。
* [[長嶋茂雄]]に憧れており、小さな[[ヘルメット]]を浅く被っていた。また、よく[[ガム]]を噛みながらオープンスタンスで打席に立っていた。
* ヤクルトに移籍する前年の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にて、長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍アピールをするが、それとなく断られている。このシーンは『[[プロ野球珍プレー・好プレー大賞]]』などでよく流される。
* 来日当初、悩殺コスチュームで歌手活動を行っていた[[杉本彩]]にメロメロになり、杉本を好みの女性に挙げていた時期があった。
* 投手の配球を読むことに非常に長けており、変化球を投げられてわざと空振りし、次に同じ変化球が来たときに狙い打ちしたこともよくあった。
* 阪神時代、ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていたのは、メジャーリーグ[[ミネソタ・ツインズ]]在籍時代のシャツをそのまま愛用していたから。
* 1992年はパチョレックの入団に伴い三塁にコンバートされたが、終盤の10月7日の対ヤクルト戦で[[飯田哲也]]の三塁線の当たりを横っ飛びで好捕するなどのプレーが認められ、ゴールデングラブ賞を獲得した。
* 1993年にはオールスターゲーム第2戦でMVPを獲得しており、外国人選手としては唯一、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターの3つでMVPを獲得している選手である。
* 1993・1994年には[[MBSラジオ]]『[[MBSタイガースナイター|毎日放送ダイナミックナイター]]』のCM明けのジングル音声を担当(デーゲーム中継や阪神戦以外の試合も含む)。
* 1994年にはCD「オマリーのダイナミック・イングリッシュ」を発売、6万枚を売り上げた。このCDに収録されている[[阪神タイガースの歌|六甲颪]](CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)のあまりの音痴っぷりは一部で注目を集め、「[[コサキンDEワァオ!]]」でも大いに取り上げられた。また、引退後には『[[LOVE LOVEあいしてる]]』にもゲストとして招かれ、生歌で六甲颪を披露したが、歌は相変わらずであった。
* このオマリーが歌った六甲おろしは、1番の歌詞は日本語、2番の歌詞は英語である。1番は日本語のために下手なのはまだ分かるが、2番の英語の歌詞も下手であった。
* 同じく1994年に[[野茂英雄]]らとともに公共広告機構(現:[[ACジャパン]])の関西限定の新聞広告にイラストで出演、これはこの年開港した[[関西国際空港]]とタイアップしたマナー啓発の広告だった。
* 現在、[[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演中。甲子園球場での試合開催時に駐車場を開放していた[[甲子園競輪場]]が[[2002年]][[3月19日]]のレースを最後に閉鎖し、甲子園球場への観客に対応した駐車場が近隣になくなったことから、[[2003年]]より「ノーマイカー甲子園」のイメージキャラクターを務めている。ここでは「ハンシンデンシャガ、イチバンヤァー!([[阪神電気鉄道|阪神電車]]が一番や!)」としゃべっている。内容によっては最初に「hi!オマリーデオマ!」(2代目[[笑福亭鶴光]]の「鶴光でおま!」のキャッチフレーズを利用)と言うこともある。その2003年は阪神特命コーチとしてユニフォームを着ていたため、[[甲子園駅]]に隣接する阪神系列のテナントビル「アルカス」の巨大広告枠に「'''<span style="color:red">駐車場ありまへん。</span>電車が一番や! by オマリー'''」の文字をバックにユニフォーム姿で電車での来場をPRした。その後阪神電車内の中吊りポスターにも登場し、両腕をクロスさせ「×」印を表現している。一時期、阪神に在籍していた投手[[ライアン・ボーグルソン]]の夫人、元モデルのニコールの通訳役という設定でCM共演していた。
* さらに[[2006年]]から「甲子園球場へのカン・ビン類持ち込み禁止」のイメージキャラクターも兼任(こちらも中吊りポスターがあり、手のひらを大きく出し「STOP」を表現)し、「甲子園のお願い事CMはオマリー」という図式が定着しつつある。
* 同時期に在籍した外国人選手のパチョレックと郭李が好調の時、外国人選手が2人までしか出場できないことが[[PKO問題]]と呼ばれた。
*因みにオマリーの名字であるO'MALLEYは[[アイルランド人]]に見られる名字である。したがってオマリーは[[アイルランド]]からの移民で[[アイルランド系アメリカ人]]と言うことになる。
* 現在のところオマリーが最後の「阪神が自前で獲得し成功した外国人野手」といわれる([[ジョージ・アリアス]]、[[アンディ・シーツ]]などは活躍したものの、いずれも他球団から獲得した選手である)。
 
== 詳細情報 ==