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== 沿革 ==
[[1477年]]に[[ハプスブルク家]]の所領となった[[ネーデルラント17州]]は、[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](スペイン王としてはカルロス1世)の死後、息子[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の統治下にあった。熱烈な[[カトリック教会|カトリック]]教徒であったフェリペ2世は、カトリックの教義を再確認した[[トリエント公会議]]の決定事項を実行すべく、ネーデルラントで[[異端審問]]を行い、[[プロテスタント]]を弾圧した。また都市の自治権を剥奪し、市民には重税を課すなどした。これに対し、ナッサウ伯ルートヴィヒ(ローデウェーク、[[ィレム1世 (オラニエ公)|オラニエ公ィレム1世]]の弟)やブレーデローデ伯ヘンドリックが中心となって同盟を結成。新旧教徒双方から、下級貴族約400名が集結した。
 
1566年[[4月5日]]、彼らは[[ブリュッセル]]の宮廷に赴き、総督[[マルゲリータ (パルマ公妃)|パルマ公妃マルゲリータ]]に対し、トリエント公会議の決定事項の強制を取りやめるよう求める請願書を提出した。この時、慌てたマルゲリータに対し廷臣ベルレーモンが、「ゴイセン(乞食)の群れに過ぎません」と語ったことから「ゴイセン」と呼ばれるようになり、また彼らもこのように自称した。以後「ゴイセン」はネーデルラントの愛国者を指す名称となった。抗議行動は新教徒、殊に[[改革長老教会|カルヴァン派]]を中心として展開されたため、カルヴァン派の異称ともなった。
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== 海の乞食団 ==
この弾圧で、10万人ともいわれるネーデルラント人が国外へ[[亡命]]した。彼らはカルヴァン派貴族を中心にして「海の乞食団」(蘭語でワーテルフーゼン(Watergeuzen)、独語でヴァッサーゴイゼン(Wassergeusen))と呼ばれる軍事集団を組織。 [[オランジュ|オラニエ]]公[[ィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]]の特許状や[[イングランド]]の支援を後ろ盾に、スペイン船の拿捕や海岸近くのカトリック教会の襲撃を行った。また、[[ホラント州]]、[[ゼーラント州]]の諸都市を攻略し、八十年戦争の進展に少なからず影響を与えた(→[[海賊]])。
 
== 関連項目 ==