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'''呉 班'''(ご はん、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。[[蜀]](蜀漢)の[[軍人]]。[[字]]は'''元雄'''。陳留郡の人。父は[[呉匡]]。
 
== 生涯 ==
呉匡は[[後漢]]の[[大将軍]]・[[何進]]に仕えた人物である。一族に[[呉懿]]、[[穆皇后呉氏]](蜀漢の祖である[[劉備]]の妻)がおり、従兄の呉懿と共に蜀漢の外戚に当たる人物であるが、『三国志』に個別の伝は立てられていない。
[[188年]]の[[劉焉]]の益州行きに呉懿の一家と共に同行した。やがて「男伊達」として知られるようになる。一族の[[穆皇后呉氏|女子]]を通じて劉焉・[[劉璋]]父子やその後益州を支配した[[劉備]]と縁戚関係となる。劉備の時代には呉懿に次ぐ待遇を受け、領軍まで昇進した。劉備が[[呉 (三国)|呉]]に侵攻を開始した時、それに従軍して[[馮習]]と共に巫県で呉将の[[李異]]・[[劉阿]]らの軍勢を撃破している([[夷陵の戦い]])。また、劉備に囮として呉軍を挑発する任務を命じられたが、これは[[陸遜]]に看破されたため失敗に終わる
 
「[[夷陵の戦い]]」に従軍して[[呉 (三国)|呉]]に侵攻。[[馮習]]と共に巫県で呉将の[[李異]]・[[劉阿]]らの軍勢を撃破している。また、劉備に囮として呉軍を挑発する任務を命じられたが、これは[[陸遜]]に看破されたため失敗に終わった。
==生涯==
[[188年]]の[[劉焉]]の益州行きに呉懿の一家と共に同行した。やがて「男伊達」として知られるようになる。一族の[[穆皇后呉氏|女子]]を通じて劉焉・[[劉璋]]父子やその後益州を支配した[[劉備]]と縁戚関係となる。劉備の時代には呉懿に次ぐ待遇を受け、領軍まで昇進した。劉備が[[呉 (三国)|呉]]に侵攻を開始した時、それに従軍して[[馮習]]と共に巫県で呉将の[[李異]]・[[劉阿]]らの軍勢を撃破している([[夷陵の戦い]])。また、劉備に囮として呉軍を挑発する任務を命じられたが、これは[[陸遜]]に看破されたため失敗に終わる。
 
劉備の子の[[劉禅]]の時代に督後部・[[後将軍]]に昇進し、[[丞相]][[諸葛亮]]の北伐に参加し[[魏延]]・[[高翔]]と共に[[司馬懿]]率いる[[魏 (三国)|魏]]軍を大いに撃退する功績を挙げた(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書諸葛亮伝の注に引く『漢晋春秋』)。諸葛亮の没後も次第に昇進して[[驃騎将軍]]・仮使節になり、緜竹侯に封じられた
 
諸葛亮の没後も昇進を重ねて[[驃騎将軍]]・仮使節になり、緜竹侯に封じられた。
==演義での呉班==
小説『[[三国志演義]]』において、[[張飛]]の[[都督]]を務め、劉備に張飛の暗殺を知らせている。夷陵の戦いにも参戦しているが、敗退している。劉備の没後は諸葛亮の南征と[[北伐]]に従軍し、その指揮の下で活躍した。[[李厳]]が兵糧補給を怠って処罰された時、その責任調査に当たり、後将軍・安楽亭侯に任じられている。
 
=== 一族 ===
最期は[[234年]]、諸葛亮の最後の北伐の時に、魏の武将の[[張虎]]と戦い、敗れて戦死し、物語から退場する。
父の呉匡は[[後漢]]の[[大将軍]]・[[何進]]に仕えた人物である。
 
呉匡は[[後漢]]の[[大将軍]]・[[何進]]に仕えた人物である。一族に[[呉懿]]、[[穆皇后呉氏]](蜀漢の祖である[[劉備]]の妻)がおり、従兄の呉懿と共に蜀漢の外戚に当たる人物であるが、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に個別の伝は立てられていない。
 
== 三国志演義 ==
小説『[[三国志演義]]』において、[[張飛]]の[[都督]]を務め、劉備に張飛の暗殺を知らせた。「夷陵の戦い」にも参戦しているが、敗退している。
 
小説『[[三国志演義]]』において、[[張飛]]の[[都督]]を務め、劉備に張飛の暗殺を知らせている。夷陵の戦いにも参戦しているが、敗退している。劉備の没後は諸葛亮の南征と[[北伐]]に従軍し、その指揮の下で活躍した。[[李厳]]が兵糧補給を怠って処罰された時、その責任調査に当たり、後将軍・安楽亭侯に任じられている。
 
最期は[[234年]]、諸葛亮の最後の北伐の時に、魏の武将の[[張虎]]と戦い、って敗れ戦死し、物語から退場する
 
[[Category:三国志の登場人物|こ はん]]
[[Category:蜀漢の人物]]
 
[[en:Wu Ban]]