「ルイージ・ダッラピッコラ」の版間の差分

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ダッラピッコラは[[ピシーノ・ディストリア]](現在の[[クロアチア]]・[[パジン]])で、イタリア人の両親の間に生まれた。
 
音楽と深く関わる環境に生まれたほかの多くの作曲家たちと違って、彼の音楽経歴はどんなに良く見ても不規則なものであった。当時[[オーストリア帝国]]の一部であった彼の出生地[[イストリア]]をめぐる政治論争が不安定さと頻繁な移住を招いたのである。彼の父親は町に唯一のイタリア語学校の校長であったが、この学校は[[第一次世界大戦]]の開戦時に閉鎖されてしまう。政治的破壊活動の恐れがあると見なされた彼の家族は[[オーストリア]]の[[グラーツ]]に抑留された。この地では新米作曲家はピアノに触れる機会もなかったのだが、彼は地元のオペラハウスでの公演に参加し、そのことで作曲を職業として追しようという希望が確固としたものになった。戦後、故郷ピシーノに戻ると、彼は頻繁に旅行をするようになった。
 
ダッラピッコラは[[1920年代]]に[[フィレンツェ音楽学校]]でピアノの学位をとり、[[1931年]]には同校の教授となった。以降、[[1967年]]に老人病により継続できなくなったために[[エルネスト・コンソーロ]]に交代し引退するまでそこで従属楽器としてのピアノレッスンを教えた。彼はまた、ルイジ・ケルビーニ音楽学校の[[ヴィート・フラッツィ]]から作曲を学んだ。ダッラピッコラの教え子には[[アブラハム・ザルマン・ウォーカー]]や[[ルチアーノ・ベリオ]]がいる。