「第一次エチオピア戦争」の版間の差分

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1894年12月、戦況の有利を見てエリトリアで[[:en:Bahta Hagos|Bahta Hagos]]による反乱が発生する。バラティエリ将軍は部下のピエトロ・トセッリ少佐に命じてこれを鎮圧し[[:en:Bahta Hagos|Bahta Hagos]]を処刑、平行して地方国家の首都であった[[アドワ]]を占領するなど進撃を継続した。[[1895年]][[1月]]、有力軍閥の長[[ラス・メンゲシャ]]がエリトリアに攻め入ってくるのを迎え撃ち、[[コアチツの戦い]]で破って敗走に追い込んだ。この勝利は以前の戦闘やスーダン軍を破った経験と合わせて、イタリア陸軍の「アフリカ人の軍隊」への先入観を決定的な物にしてしまった。もっともこうした戦況評価はイタリアだけではなく、武器を譲ったフランス自身もメネリク2世を見捨てる可能性を検討し始めていた。そればかりか[[バルドー条約]]の支持を得る為にイタリア側に有利な行動まで取っていた。またメネリク2世もショア王国の軍隊を援軍として戦争に加わらせる決定を下している。
 
1895年12月、イタリア陸軍はエチオピア軍への追撃を開始したが、1895年12月7日に発生した[[アンバ・アラギの戦い]]で、メネリク2世はエチオピア皇帝直轄軍の活躍によって漸く近代火器を有効に活用した反撃を行う事が出来た。損害を受けたイタリア陸軍はジュゼッペ・アリモンティ将軍指揮の下、一部部隊を防衛陣地(これはまだ未完成であった)を残した上で各地に展開していた軍を集結させた。勢いを得たメネリク2世の皇帝直轄軍は前線陣地の包囲を開始したが、数度にわたってイタリア陸軍の防御により失敗した。戦闘の末、イタリア側の陣地司令官は以前軍閥と結んだ協定を活用して、交渉の上で陣地を明け渡し後方の軍に合流した。対するメネリク2世も陣地を明け渡した兵士達に武器の保持を許し、移動用の乗り物を渡すなど礼節に則った態度を示した。この一連の行動は「メネリク2世が未だイタリアとの和解を望んでいた」と解釈するのが一般的な通説であるが、一方で歴史家[[ハロルド・マーカス]]はメネリク2世の行動は後に[[アドワの戦い]]で地形的な有利を得る為の策謀だったと述べている。
 
===アドワの戦い===