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やりたこ (会話 | 投稿記録)
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Takashieikou (会話 | 投稿記録)
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新入幕の場所こそ6勝9敗に終わり十両に陥落したが翌5月場所で十両優勝を飾り1場所で[[幕内]]に戻った。その後は幕内上位に定着し、しばしば大物を食ってファンを沸かせた。大阪市内の出とあって出身地・浪速区の[[大阪府立体育会館]]で行われる3月場所での人気は特に高く、[[1967年]]3月場所5日目に横綱[[大鵬幸喜|大鵬]]を6回目の挑戦で初めて[[寄り切り]]で破り連勝を34で止める[[金星 (相撲)|金星]]を挙げた時は、興奮の余り父親が支度部屋に祝福に駆けつけるほど大変な騒ぎになったという。
 
ところがこうした活躍にもかかわらず[[三役]]には縁がなかった。特に[[1964年]]11月場所では東[[前頭]]2枚目で横綱[[柏戸剛|柏戸]]を破り8勝と[[勝ち越し]]たものの、翌場所では東3枚目で9勝を挙げた[[青ノ里盛|青ノ里]]が[[小結]]に上がり、同じ東2枚目でまたも柏戸を破り8勝を挙げ唯一の[[三賞]]となる技能賞を獲得した[[1966年]]3月場所でも、西3枚目にいた同部屋の[[清國勝雄|清國]]が9勝を挙げて翌場所小結に昇進した。この両場所とも[[関脇]]・小結の4人中3人が[[負け越し]]を記録しており、淺瀬川は三役昇進の最大のチャンスだったにもかかわらず不運に泣いたといえる。なお淺瀬川はいずれも次の場所では東筆頭にとどめられて[[1965年]]1月場所は4勝11敗と大敗、1966年5月場所では右[[膝]][[靱帯]]を痛め途中休場(4敗11休)してしまった。
 
その後左[[目]]に虫が寄生するという奇病(左眼慢性化膿症)に罹り幕下にまで下がったものの[[1968年]]1月場所では7戦全勝で幕下優勝を飾り、同年7月場所で約1年ぶりに幕内に返り咲き鮮やかなカムバックを見せた。直後は十両との往復が続いたが、[[1969年]]9月場所では再び幕内上位(西前頭2枚目)まで[[番付]]を戻し、[[大関]][[北の富士勝昭|北の富士]]を破っている。同年7月場所では新大関清國の初優勝パレードで旗手を務めた。