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Momosese (会話 | 投稿記録)
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<small>天保5-6年 (1834–36) の堺町・葺屋町。表通りに面して中村座(奥)と市村座(手前)が肩を並べている。</small>]]
 
江戸の芝居小屋は、寛永元年 ([[1624年]]) に[[山城国|山城]]の[[狂言師]]で[[京都|京]]で猿若舞を創始した[[中村勘三郎_(初代)|猿若勘三郎]]が、中橋南地(なかばしなんち、現在の[[京橋 (東京都中央区)|中央区京橋]]のあたり)に櫓をあげたのにはじまる。これが'''猿若座'''である。ところがこの地が[[江戸城|御城]]に近く、櫓で打つ人寄せ太鼓が[[旗本]]の登城を知らせる太鼓と紛らわしいということで、寛永9年 ([[1632年]]) には北東に[[町_(単位)|八町]]ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の[[日本橋堀留町|中央区日本橋堀留町]]2丁目]])へ移転、さらに[[慶安]]4年 ([[1651年]]) にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の[[日本橋人形町|中央区日本橋人形町]]3丁目]])へ移転した。その際、座の名称を座元の本姓である中村に合せて'''中村座'''と改称している。
 
一方、寛永11年 ([[1634年]]) には[[堺市|泉州堺]]の人で、京で座元をしていた村山又兵衛という者の弟・村山又三郎が江戸に出て、葺屋町(ふきやちょう、現在の[[日本橋人形町|中央区日本橋人形町3丁目]])に櫓をあげてこれを'''村山座'''といった。しかし村山座の経営ははかばかしくなく、[[承応]]元年 ([[1652年]]) には[[上野国|上州]]の人・[[市村羽左衛門|市村宇左衛門]]がその興行権を買い取って、これを'''市村座'''とした。
 
堺町の中村座と葺屋町の市村座は同じ通りに面した目と鼻の先に建っていた。また界隈にはこのほかにも小芝居の玉川座<ref>承応元年 (1652) に玉川彦十郎(たまがわ ひこじゅうろう)という者が葺屋町に櫓をあげ、これを'''玉川座'''といったが、間もなく経営難で廃座となった。</ref>、[[浄瑠璃#古浄瑠璃|古浄瑠璃]]の薩摩座、[[人形劇]]の[[結城座]]などが軒を連ねていたので、この一帯には[[芝居茶屋]]<ref name=CHAYA>[[明和|明和年間]] (1764–71) の堺町・葺屋町では、中村座が大茶屋(高級料理屋)16軒と小茶屋(一般向けの小料理屋)15軒を従え、市村座が大茶屋10軒と小茶屋15軒を従えていた。また木挽町では森田座が大茶屋7軒を従えていた。</ref>をはじめ、役者や芝居関係者の住居などがひしめき、一大芝居町を形成した。
 
===木挽町===
寛永19年 ([[1642年]])、山村小兵衛という者が木挽町四丁目(こびきちょう、現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座|銀座]]4丁目]]の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを'''山村座'''といった。続いて慶安元年([[1648年]]) には[[筑前国|筑前]]の狂言作家・[[河原崎権之助]]が木挽町五丁目(現在の[[銀座|銀座5丁目]]の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを'''河原崎座'''といった。さらに[[万治]]3年 ([[1660年]]) には[[摂津国|摂津]]の人で「うなぎ太郎兵衛」と呼ばれた[[森田勘彌|森田太郎兵衛]]がやはり木挽町五丁目に櫓をあげ、これを'''森田座'''といった。
 
こうして木挽町四五丁目界隈にも芝居茶屋<ref name=CHAYA />や芝居関係者の住居などが軒を連ね、一時は堺町・葺屋町に匹敵する芝居町を形成、「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどの盛況となった。この山村座・河原崎座・森田座の三座を、'''木挽町三座'''という。
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折しも[[徳川幕府|幕府]]では、[[老中]]首座の[[水野忠邦]]を中心に[[天保の改革]]が推進されていた。改革は逼迫した幕府の財政を立て直すことを目的としたものだったが、水野はこれと同時に倹約令によって町人の贅沢を禁じ、風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えた。特に歌舞伎に対しては、[[市川團十郎_(7代目)|七代目市川團十郎]]を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。
 
堺町・葺屋町一帯が焼けたことは、こうした綱紀粛正をさらに進めるうえでの願ってもいない機会だった。奉行所は早くも同年暮れには中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁じ、一方で幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の[[台東区]][[浅草|浅草]]6丁目]])にあった[[園部藩|丹波園部藩]]の[[藩邸|下屋敷]]を収公。翌天保13年 ([[1842年]]) 2月にはその跡地一万坪余りを代替地として中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。聖天町は[[外濠_(東京都)|外堀]]のはるか外側、堺町・葺屋町からは東北に[[里|一里]]はあろうかという辺鄙な土地だった。水野はそこに芝居関係者を押し込めることで、城下から悪所を一掃しようとしたのである<ref>同じ年には[[吉原遊廓|吉原]]を唯一の公娼とし、城下での[[遊郭]]を一切禁じている。聖天町はこの吉原に隣接した地にある。</ref>。
 
[[Image:Saruwaka-Cho.JPG|thumb|325px|left|猿若町の地図
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そんな中、新政府は同年9月末になって突然猿若町三座に対し、他所へ早々に移転することを勧告した。しかし三座は困惑する。天保の所替えからすでに25年、世代も交替し、猿若町は多くの芝居関係者にとって住み慣れた土地となっていた。ただでさえ[[明治維新|御一新]]で先行き不透明な時勢、三座の座元はいずれも移転には慎重にならざるを得なかったのである。
 
業を煮やした[[東京府]]は、[[明治]]6年 ([[1873年]]) 府令によって[[東京市]]内の劇場を一方的に十座と定めてしまった。これをうけて市内には、中橋(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[京橋_(東京都中央区)|京橋]])に澤村座が、久松町(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋久松町]])に喜昇座<ref name=CHITOSE>喜昇座 → 久松座 → 千歳座 → [[明治座]]と改称。</ref>が、蠣殼蛎殻町(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋蛎殻町]])に中島座が、四谷(現在の[[新宿区]][[四谷]])に桐座が、春木町(現在の[[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]]3丁目]])に奥田座<ref>奥田座 → 春木座 → 本郷座と改称。</ref>が、新堀町(現在の[[港区 (東京都)|港区]][[芝_(東京都港区)|芝]]2丁目]])に河原崎座<ref>河原崎座は安政2年 (1855) に失火で全焼すると休座に追い込まれ、代わって翌年には本櫓の森田座が再興された。その後座元の六代目河原崎権之助は市村座の舞台に立ち金主(財務責任者)を兼ねるなど活躍したが、明治元年 (1868) 9月に自宅に押し入った強盗に刺し殺される。このとき戸棚に隠れて九死に一生を得たのが養子の七代目権之助、のちの河原崎三升で、これが明治7年 (1874) に芝新堀町に河原崎座を再興し、のちにこれを'''新堀座'''と改めている。三升はこれを節目に生家の[[市川團十郎|市川家]]に戻って[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]を襲名、明治9年 (1876) には旧本櫓筋にあたる新富座(森田座)の座頭(興行の責任者)になっている。</ref>が、次々に開場していった。猿若町三座は頭ごなしに「十座」のなかに取り込まれてしまったうえ、新劇場がいずれも[[外濠 (東京都)|外濠]]の内側にあるのに対して、猿若町は歓楽街とはいえ東北に偏った地にあることは否めなかった。これが重い腰をあげるひとつの理由となる。
 
三座のなかで最初に猿若町を離れたのは守田座<ref name=MORITA/>で、明治5年 ([[1872年]]) に新富町(しんとみちょう、現在の[[新富 (東京都中央区)|中央区新富]]2丁目]])に移転、明治8年 ([[1875年]]) にこれを'''新富座'''と改称した<ref>この守田座の新富町への移転と新富座への改称も、山積する負債からなんとか抜け出したいという願いを込めた験かつぎだった。文字通り「新しい富」を求めたのである。</ref>。次が中村座で、明治15年 ([[1882年]]) に失火により全焼すると、明治17年 ([[1884年]]) に新劇場を浅草西鳥越町(にしとりごえちょう、現在の[[鳥越_(台東区)|台東区鳥越]])に新築、これを'''猿若座'''<ref>猿若座 → 鳥越座 → 中村座と改称。</ref>と改称した。最後が市村座で、明治25年 ([[1892年]]) に下谷二長町(にちょうまち、現在の[[台東 (台東区)|台東区台東]]1丁目)に 三階建煉瓦造の新劇場を建てて移転した。
 
[[Image:Kanya_Morita_XII.jpg|thumb|left|175px|十二代目守田勘彌]]