「村国男依」の版間の差分

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'''村国 男依'''(むらくに の おより<ref>旧仮名遣いでの読みは「むらくにのをより」</ref>、生年不明 - 天武天皇5年([[676年]])7月)は、日本の[[飛鳥時代]]の人物である。名は'''雄依'''、'''小依'''とも書く。旧仮名遣いでの読みは、「むらくにのをより」。姓([[カバネ|姓]]は[[連]]。子に[[672年村国志我麻呂]]がいる。[[壬申冠位・位階制度変遷#冠位二十六階|冠位]]で大海人皇子([[天武天皇贈位|贈]][[外位|外]])に属して戦い、近江方面の諸将の筆頭として連戦連勝し、最大の功を立てた。贈[[小紫]]。
 
[[672年]]の[[壬申の乱]]で大海人皇子([[天武天皇]])に属して戦い、[[近江国|近江]]方面の諸将の筆頭として連戦連勝し、最大の功を立てた。
[[村国氏]]は[[美濃国]][[各務郡]]の豪族である。『[[日本書紀]]』では一貫して「連」姓で記されるが、『続日本紀』大宝元年([[701年]])7月壬申条に「村国小依」とあることから、当時は姓を持たず、壬申の乱の功績で連を授かったとする説がある。男依には子に[[村国志我麻呂]]がいる。
 
== 出自 ==
[[村国氏]]は[[美濃国]][[各務郡]]の豪族である。『[[日本書紀]]』では一貫して「連」姓で記されるが、『[[続日本紀]]』大宝元年([[701年]])7月壬申条に「村国小依」とあることから、壬申の乱当時は姓を持たず、壬申の乱の功績で連を授かったとする説がある。男依には子に[[村国志我麻呂]]がいる。
 
== 壬申の乱での活躍 ==
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== 功臣のその後 ==
日本書紀は戦後行賞の記事で個人名をあげないが、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、[[小山]]位以上をあたえたとする記事があるので、男依が受けた位もこれ以上ではあっただろう。『[[続日本紀]]』大宝元年 ([[701年]]) 7月21日条は、先朝が壬申の論功をおこなったときに村国小依が120戸の封を賞として与えられたことを伝える。小依(男依)の120戸は最多である。だが、地方豪族出身である男依らが、功によって中央の要職を占めることはなかった。
 
日本書紀は戦後行賞の記事で個人名をあげないが、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、[[小山]]位以上をあたえたとする記事があるので、男依が受けた位もこれ以上ではあっただろう。『[[続日本紀]]』大宝元年 ([[701年]]) 7月21日条は、先朝が壬申の論功をおこなったときに村国小依が120戸の封を賞として与えられたことを伝える。小依(男依)の120戸は最多である。だが、地方豪族出身である男依らが、功によって中央の要職を占めることはなかった。
 
村国連雄依は天武天皇5年([[676年]])7月に死んだ。壬申の際の功により、外[[小紫]]が贈られた。小紫は高位だが、[[外位]]である。地方出身で出自が低い者を中央の貴族と同列にするわけにはいかないが、彼等の功績は高く顕彰したいという考慮から、「外」という位が作られたと推測されている。
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[[霊亀]]2年([[716年]])3月8日に、村国連小依の功績によって息子の志我麻呂が田を与えられた。
 
== 脚注 ==
[[村国連志我麻呂]]をはじめとする男依の子孫は、おそらく男依の殊功によって中央下級官人貴族としての道を歩むこととなった。男依の孫に当たる[[村国島主| 村国連嶋主]]や、[[村国連虫麻呂]]・[[村国連子老]](いずれも男依との関係は不明)らが、続日本紀などに官人として記載されている。しかし彼らは[[藤原仲麻呂]]([[恵美押勝]])の与党として[[天平宝字]]8年([[764年]])の[[藤原仲麻呂の乱]]で殺されたり(嶋主)、官位を剥奪された。その後いずれも無実であったとして本位に復されたが、以後没落したと考えられる。
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[[Category{{DEFAULTSORT:壬申の乱|むらくに おより]]}}
[[Category:飛鳥時代壬申人物|むらくにのおより]]
[[Category:676年没|むらくに飛鳥時代おより人物]]
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[[en:Murakuni Oyori]]