「エジプト第6王朝」の版間の差分

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[[Image:800px-Pyramid Texts Teti I.JPG|thumb|left|200px|テティ王の[[ピラミッド・テキスト]]]]エジプト第6王朝の初代王は[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]出身の[[テティ]]であった。[[エジプト第5王朝|第5王朝]]最後の王[[ウナス]]に男子がおらず後継者問題が生じた。この後継者問題の後、テティが王座を獲得した。[[マネト]]<ref>[[紀元前3世紀]]のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝[[プトレマイオス朝]]に仕えたため[[ギリシア語]]で著作を行った。</ref>や[[トリノ王名表]]などの記録ではこれをもって王朝の交代としている。テティは[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]出身であると記録されているが、彼がどのような経緯で王座を獲得したのかはよくわかっていない。テティの妻[[イプト1世]]はウナス王の娘であったとする説が有力であるが、裏づけとなる証拠は乏しく以前の王達とテティの関係は不明瞭である。
 
当時エジプトでは州侯(各州の太守)や上級官吏の勢力が増大しており、テティは婚姻によって有力官吏家との関係を強化することを志向した。こうした有力官吏の中でも[[宰相]]であった[[メルエルカー]]は[[サッカラ]]に巨大な[[マスタバ]](墓)を残したことで著名である。テティは官僚制の発達した第4・第5王朝時代を通じて肥大化した行政機構の改革に取り組んだが、治世12年頃に護衛の兵士によって[[暗殺]]された。マネトの記録によれば、このテティ暗殺の首謀者であるとされているのは次の王[[ウセルカラー]]である<ref>ウセルカラーが実際に即位したかどうかについては疑問の声もあり、彼を歴代王に含めない学者もいる。</ref>。しかしウセルカラーは政権を安定させる事に失敗し、1年足らずして彼の統治は終わった。
 
次いで王となったのは[[ペピ1世]](メリラー・ペピ)である。ペピ1世もまた、父テティと同じように有力な家(例えば上エジプトの有力貴族[[クウイ家]]の娘二人を娶っている)と次々姻戚関係を築き、中央権力の強化を図った。ペピ1世の時代に権勢を振るったのは[[ウェニ]]であった。ウェニは元々下級官吏であったが、ペピ1世の後宮で王妃による陰謀が発覚した際、それを取り調べる裁判官に任じられ、やがてペピ1世の寵臣として宰相まで上り詰めた。ウェニは5度にわたるアジア([[パレスチナ]]地方)遠征を指揮し、南部パレスチナを支配下におさめた。同時期に有力な[[上エジプト]]の州侯らに主導されて[[ヌビア]]遠征も繰り返されており、ヌビア地方を支配下に置くことにも成功している。このようにペピ1世は比較的順調に統治を進め、49年にわたって王座にあった。ペピ1世の後、ペピ1世とクウイ家の娘の間の息子[[メルエンラー1世]](メルエンラー・アンティエムサフ1世)が即位すると、彼は自らヌビアへ行幸し、ヌビアの首長達から臣従の礼を受けるとともにウェニに五つの運河を掘削させ、ナイル川上流域の水上交通網を整備した。このとき[[アフリカ]]内陸部の珍奇な物品が数多くエジプトに齎されたことが記録に残っている。