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{{武士/開始 |島津義虎}}
{{武士/時代 |[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]}}
{{武士/生誕 |[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])}}5月1日
{{武士/死没 |[[天正]]13年([[1585年]])}}7月25日
{{武士/改名 |又三郎晴久、陽久、義俊、三郎太郎、八郎左衛門}}
{{武士/官位 |[[薩摩守]]}}
{{武士/主君 |[[島津貴久]]、、[[島津義久|義久]]}}
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{{武士/子 |'''[[島津忠辰|忠辰]]'''、[[島津忠隣|忠隣]]、忠清、忠豊。}}
{{武士/終了}}
'''島津 義虎'''(しまづ よしとら)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[薩摩国|薩摩]]の[[武将]]。
 
[[島津氏]]の分家・[[薩州家]]の6代当主で薩摩[[出水]]の領主。5代当主、実久の長男。父の実久は薩摩[[守護職]]を巡り[[伊作家]]の[[島津忠良]]・[[島津貴久]]親子と対立していたが、'''義虎'''は早くから島津宗家に従う姿勢をみせていた。
 
== 経歴 ==
天文22年([[1553年]])、実久の死去によって家督を継ぐと[[肥後国|肥後]][[相良氏]]の備えにつく。[[永禄]]11年([[1568年]])、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害、相良・[[菱刈氏]]の連合軍が挙兵。義虎は詰めていた[[羽月城]]を退去、本領の出水へ退却したため[[島津義久]]の怒りを買っている。天正15年([[1581年]])には相良氏討伐の先鋒となり相良氏を下す。[[龍造寺氏]]との[[沖田畷の戦い]]にも従軍し軍功を挙げた。島津一門では当主の義久に次ぐ地位にあり、領地も出水のほか[[高城]]・[[水引]]・[[山野]]など3万1900石の禄高を領した。天正13年([[1585年]])、死去。享年50。
父の実久が島津忠良・島津貴久親子に敗れ、出水に逼塞した後、[[島津義久|義久]]の長女[[於平]]を妻と婚姻することにより和解を図った。
 
東郷の領主である東郷重治(大和守)とは、義虎の家臣である[[湯田兵庫]]の秘蔵の飼犬が盗まれた事に端を発す諍いにより[[天文]]16年([[1547年]])から約20年間争っており、たびたび合戦を繰り返した。
 
[[永禄]]6年([[1563年]])には上洛し、将軍[[足利義輝]]に拝謁、一字拝領し名を「陽久」から「義俊」へと改名している。
 
[[永禄]]8年([[1565年]])3月には父の実久の弟である[[島津忠兼 (薩州家)|島津忠兼]]に[[長島]]攻略を命じ、長島領主[[天草越前守]]を攻め殺し、長島を薩州島津家の[[領有]]としている。この長島攻略と同年の7月8日には、島津忠兼を謀殺している。
 
[[永禄]]10年([[1567年]])より[[羽月城]]を守備、[[肥後国|肥後]][[相良氏]]の備えについた。
[[永禄]]12年([[1569年]])、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害、相良・[[菱刈氏]]の連合軍が挙兵。義虎は詰めていた羽月城を退去、本領の出水へ退却したため[[島津義久]]の怒りを買っている。
[[天正]]6年([[1578年]])の[[耳川の戦い|高城川の戦い]]の際には[[大友氏]]に呼応する相良氏への備えとして、[[出水城]]を守った。
 
[[天正]]9年([[1581年]])には相良氏討伐の先鋒となり相良氏を下す。
[[天正]]12年3月([[1584年]])の [[龍造寺氏]]との[[沖田畷の戦い]]にも従軍し軍功を挙げた。
 
島津一門では当主の義久に次ぐ地位にあり、領地も出水のほか[[高城]]・[[水引]]・[[山野]]など3万1905石の禄高を領した。
 
天正13年([[1585年]])、死去。享年50歳。
 
== 参考文献 ==
*『[[本藩人物誌]] 鹿児島県史料集8』(鹿児島県立図書館)
 
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