「紗那郡」の版間の差分
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[[江戸時代]]になると、紗那郡域は[[宝暦]]4年[[松前藩]]によって開かれたクナシリ[[場所]]に含まれた。[[北方探検]]が盛んに行われるようになると、[[天明]]6年と[[寛政]]3年には[[最上徳内]]が択捉島を探検、寛政10年には[[近藤重蔵]]が最上徳内を案内役として調査を行っている。その翌年には[[高田屋嘉兵衛]]によって択捉航路が開かれた。寛政12年にはエトロフ場所が開かれ、紗那に[[会所 (近世)|会所]]を置き択捉島に17箇所の漁場が設けられるとともに[[北前船]]も寄航していた。また、寛政年間には[[本州]]や[[和人地]]などと同様に郷村制がしかれた。
[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]、紗那郡域は[[蝦夷地|東蝦夷地]]に属していた。[[南下政策]]を強力に推し進める[[ロシア帝国|ロシア]]に備え、寛政11年紗那郡域は[[天領]]とされ[[弘前藩]]と[[盛岡藩]]が紗那に勤番所を置き警固を行っていた。[[文化 (元号)|文化]]3年、高田屋嘉兵衛によって[[有萌神社]]と[[紗那神社]]が創立された。文化4年には紗那の会所などをロシアが攻撃・略奪・放火する事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が起こっており、当時勤務中の[[間宮林蔵]]もこの事件に巻き込まれている。[[文政]]4年紗那郡域は一旦松前藩領に復した。[[嘉永]]3年[[
*[[1882年]][[2月8日]] - [[三県一局時代#廃使置県|廃使置県]]にともない[[根室県]]の所管となる。
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