「フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯)」の版間の差分

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'''深刻伯フリードリヒ2世'''('''Friedrich II. der Ernsthafte''', [[1310年]][[11月30日]] - [[1349年]][[11月18日]] [[ゴータ]])は、[[マイセン辺境伯]]。'''痩身伯'''('''der Magere''')とも呼ばれる。[[フリードリヒ1世 (マイセン辺境伯)|勇敢伯フリードリヒ]](または「噛み付かれた伯」とも呼ばれる)とエリーザベト・フォン・アルンスハウクの子
 
[[1323年]]に亡くなった父の後継者として[[マイセン辺境伯]]と[[テューリンゲン方伯]]を母の後見の下、単独相続した。[[1329年]]の成人後は、家臣や親近者らと共に長年にわたり戦いを、特に[[ヴァイマール=オーラミュンデ伯]]やシュヴァルツブルク伯との戦い([[チューリンゲン伯戦争]])を展開した。
フリードリヒ2世は1310年に[[フリードリヒ1世 (マイセン辺境伯)|勇敢伯フリードリヒ]](または「噛み付かれた伯」とも呼ばれる)とエリーザベト・フォン・アルンスハウクの間の息子として[[ゴータ]]で生まれた。
 
[[1323年]]に亡くなった父の後継者として[[マイセン辺境伯]]と[[テューリンゲン方伯]]を母の後見の下、単独相続した。[[1329年]]の成人後は、家臣や親近者らと共に長年にわたり戦いを、特に[[ヴァイマール=オーラミュンデ伯]]やシュヴァルツブルク伯との戦い([[チューリンゲン伯戦争]])を展開した。[[バイエルン大公|バイエルン公]]でもあった[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の死後、義弟の[[バイエルン|バイエルン公]][[ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ5世]]らバイエルン派はドイツ王への推戴を示唆するが、フリードリヒはその煮え切らない提案に不信感を覚えてこれを拒絶し、[[ルクセンブルク家]]の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]に利する結果となった。フリードリヒ2世は領主権を強化し、カール4世はこれに危機感を募らせた。[[1348年]]の会談で両者は互いの領土資産を承認しあった。
 
フリードリヒは1349年11月18日にヴァルトブルクで亡くなった。[[1328年]]に[[ニュルンベルク]]で結婚した、皇帝ルートヴィヒ4世の娘マティルデ([[1309年]] - [[1346年]])との間には、以下の9人の子供が生まれた。
* エリーザベト(1329年[[11月22日]] - [[1375年]][[4月21日]]):[[ニュルンベルク城伯]][[フリードリヒ5世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ5世]]と結婚。
* フリードリヒ (生没共に[[1330年]])