「追風海直飛人」の版間の差分

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Takashieikou (会話 | 投稿記録)
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新[[十両]]だった[[1999年]]1月場所の[[豊ノ海真二|豊ノ海]]戦を初めとし、新[[三役]](関脇)だった[[2000年]]11月場所の[[栃乃花仁|栃乃花]]戦、[[2001年]]11月場所の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]戦、[[2005年]]5月場所の[[霜鳳典雄|霜鳥]](現・霜鳳)戦など、度重なる怪我に苦しめられた。2005年5月場所で左膝の半月板を損傷して途中休場、十両に転落した翌7月場所も全休して一気に[[幕下]]まで落ちた。
 
2005年9月場所皆勤後再び休場し、東幕下49枚目で迎えた[[2006年]]1月場所初日に引退届を提出した。[[公傷制度]]が廃止されたこともあり、名人力士の若くしての引退はインターネット上などで惜しまれ、現在でも公傷制度の廃止・復活希望の話題では必ず名前が出るほどである。引退に際して思い出に残る取組として2000年11月場所[[横綱]]・[[貴乃花光司|貴乃花]]と対戦した一番を挙げた。実力者であったが結局、横綱に勝つことはできなかった。(不戦敗1を含む11戦全敗))。
 
[[三役]]在位は関脇1場所のみで[[小結]]経験はないが、これは戦後では[[八百長]]暴露で一躍時の人となった[[高鐵山孝之進|高鐵山]]と並ぶ珍記録である。2006年[[10月1日]]には[[両国国技館]]で[[引退相撲]]を行った。