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メリク・テムルはクビライの孫にあたる安西王[[アナンダ]]にともなわれ元の首都[[大都]]に向かったが、翌1307年正月、大ハーンの[[テムル]]が病没した。テムルの皇后[[ブルガン]]は自己の権勢を保つため、テムルの従兄弟であるアナンダを大都に迎え入れてハーンに据える陰謀をめぐらした。しかし、アナンダとメリク・テムルが大都に到着したとき、テムルの甥[[アユルバルワダ]]を推す派による[[クーデター]]が起こり、メリク・テムルはアナンダ、ブルガンとともに捕らえられた。モンゴル高原でオゴデイ家と戦っていたアユルバルワダの兄[[カイシャン]]が即位のためもうひとつの首都[[上都]]に到着すると、メリク・テムルはアナンダの帝位[[簒奪]]に協力した罪により、アナンダとともに処刑された。
 
メリク・テムルの刑死後もアリクブケ家は存続し勢力を保ちつづけたが、クビライ家が政権を維持している間、もはや政治的に浮上することはなかった。アリクブケ家に属する[[イェスデル]]がクビライ家最後の大ハーン、[[トグス・テムル]]を殺害してクビライ家をいったん断絶させ、ハーン位を簒奪するのは[[北元]]時代の[[1388年]]のことである。また、[[1335年]]に[[イラン]]の[[フレグ]]家が断絶したとき、[[イルハン朝]]のハン位を相続した[[アルパ・ケウン]]はメリク・テムルの曾孫であった。
 
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[[Category:ジギン氏イ家]]
[[Category:1307年没]]