「王茂 (南朝)」の版間の差分
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'''王 茂'''(おう ぼう、[[456年]]‐[[515年]])は、[[中国]]の[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、南朝[[宋 (南朝)|宋]]・[[斉 (南朝)|斉]]・[[梁 (南朝)|梁]]の武将。[[字]]は休遠<ref>『[[梁書]]』より。『[[南史]]』では「字休連、一字茂先」とする。北朝の諸史では「王茂先」に作る。</ref>。本籍は太原郡祁県(現[[山西省]])。
== 生涯 ==
数歳にして祖父王深に才能を認められ、「吾が家の千里駒」と賞賛された
[[495年]]、[[北魏]]が司州を包囲すると、王茂は郢州の兵を率いて救援に駆けつけ、[[蕭衍]](後の梁の武帝)とともに敵将[[王粛 (南北朝)|王粛]]らを打ち破った。しばらくして輔国長史
[[502年]]、梁が建国されると、もとの官に鎮軍将軍を加えられ、望蔡県公に封じられた。同年、群盗が神虎門を焼き、[[衛尉]]の[[張弘策]]を殺すと、王茂は兵を率いて駆けつけ、賊を射殺した。王茂は賊の襲撃を防げなかったことを理由に自ら辞職を願い出たが、詔勅によって慰留された。[[江州]]刺史の陳伯之が反乱を起こすと、使持節・散騎常侍・[[都督]]
王茂は官職について取り立てて名声があったわけではないが、寛大な人柄で、部下や民衆に慕われた。普段から居住まいを正しくし、僕妾の前でもだらしない様子をしなかった。容姿が美しく、朝会に出入するたびに人々
[[512年]]、司空に任じられ、侍中・丹陽尹はもとのままとされた。丹陽尹を辞すと中権将軍に任じられた。[[513年]]、使持節・散騎常侍・[[驃騎将軍]]・開府儀同三司・都督江州諸軍事・江州刺史に任じられる。515年、任地の江州で死去。享年60。侍中・太尉を追贈された。[[諡]]は忠烈。子の王貞秀が跡を継いだが、服喪中に無礼を働いたことを弾劾され、越州に流された。王貞秀は後に[[広州]]に流されると、北魏の降人である杜景とともに反乱を計画したが、刺史の蕭昂により誅殺された。
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