「武田信義」の版間の差分

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[[治承]]4年([[1180年]])[[4月 (旧暦)|4月]]、[[以仁王]]の令旨により、甲斐源氏を[[石和]]に集結させて挙兵し甲斐国の実権を握る(『[[山槐記]]』)。このとき信義は53歳であった。ついで[[信濃国|信濃]]に侵攻し諏訪に進出する。その後、[[駿河国]]に進出して駿河[[目代]][[橘遠茂]]や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『[[吾妻鏡]]』)。平家本軍が近づくと弟の[[安田義定]]や子の[[一条忠頼]]らを引き連れて[[富士川の戦い]]にも参戦した。吾妻鏡によると駿河[[守護]]となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。
 
その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、[[源義仲]]の三者が[[武家の棟梁]]として並立する時期が続く。そのような中甲斐源氏の中に分裂が見られ、弟の[[加賀美遠光]]とその次男[[小笠原長]]、信義の子[[武田信光|石和信光]]は頼朝に接近し安田義定は平家を打ち破って都に進撃する義仲とともに東海道から都に上洛し、その功により「遠江守」の官位を手中にする。やがて源義仲と頼朝が対立関係となると、信義や甲斐源氏は頼朝と協調路線を選択し、その後も武田軍は[[源義経]]にしたがって[[源義仲|木曾義仲]]の追討・[[一ノ谷の戦い]]・[[屋島の戦い]]・[[壇ノ浦の戦い]]に参加した。
 
だが、それと同時期甲斐源氏は自分と同格の武家の棟梁の存在を排除もしくは屈服させるという頼朝の路線の障害となる存在となってしまう。[[養和]]元年([[1181年]])には、[[後白河天皇|後白河法皇]]が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は駿河守護を解任されたうえ鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という[[起請文]]を書かされている。[[元暦]]元年([[1184年]])[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]、子の一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で暗殺された。また[[土肥実平]]より上位にあるという書状を送った子の[[板垣兼信]]に対して頼朝が実平優位を示す返書を出すということもあった。その一方で親頼朝派の加賀美遠光に対しては「信濃守」任官を朝廷に申請するなど厚遇した。このように、親和策と弾圧をそれぞれの一族が個別に受けた結果、挙兵時頼朝や義仲と同格の武家棟梁であった甲斐源氏各人は[[鎌倉殿]]の[[御家人]]という扱いへと転じていくことになる。