「松田壽男」の版間の差分

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Mori8 (会話 | 投稿記録)
m 著書文献の整理、西暦を和暦を併記
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[[新潟高等学校 (旧制)]]を経て、[[東京大学|東京帝国大学]]文学部東洋史学科に入学。昭和2年8月に「北魏書」西域伝の北魏朝の使者の報告に偽作里数が使われていることを発見する。この時を契機として東洋史に目覚める。
 
1928年(昭和3年)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。東京帝国大学文学部の副手、[[東洋大学]]の予科教授となる。1939年(昭和14年)には、東京帝国大学文学部講師となる。
 
1942年(昭和17年)の春に新潟高等学校の恩師鳥山喜一の計らいで、病没した大谷勝真教授の後任として家族を残し[[京城府]](ソウル)に赴任する。
 
1944年(昭和19年)春に京城(ソウル)から帰国する。その後、12月から朝霞の[[陸軍予科士官学校]]に陸軍教授として勤める。
 
1945年(昭和20年( 敗戦)の9月3日に復員し、家族の疎開先である[[長野県]][[小県郡]]滋野村の芝生田で東洋史を一生やらないと考えて農業生活をおこなう。
最後の仕事と考えて「世紀の世界史」、「アトラス世界史」、平凡社全書の一冊として出版される予定の「天山路」を浅間山の麓で書き上げる。しかし「天山路」の原稿は平凡社の社内紛失で出版がされる事はなかった。
その後、転業を考えてあれこれ考えている時に、新潟高等学校の同級生の安中忠雄から「新編日向風土記」の執筆を勧められる。これが契機となり各地の風土記の作成をすることになる。
 
1951年(昭和26年)には、平凡社「世界歴史辞典」の執筆陣への参加を受ける。
 
1952年(昭和27年)の春に[[早稲田大学]]から史学科の欠員を埋めたいと申し出を受ける。申し出を受け早稲田大学の教授職として東洋史学に復帰する。
 
1953年(昭和28年)には「古代天山の歴史地理学的研究」が認められ毎日学術奨励金を授与される。
 
1956年(昭和31年)の11月に早稲田大学の学生サークル活動としてアジア学会が誕生しその会長となる。
 
1957年(昭和32年)に「丹生考」を出版する。これが契機となり、矢嶋澄策理学博士に共同研究を呼びかけられる。
 
1960年(昭和35年)に「内陸アジア史学会」の初代会長に推挙される。また同年に「日本イスラム協会」の常任理事になる。
 
1963年(昭和38年)に「日本イスラム協会」理事長になる。
 
1970年(昭和45年)に「丹生の研究 - 歴史地理学から見た日本の水銀 -」が出版される。
 
1974年(昭和49年)に早稲田大学を定年退職する。
 
1982年(昭和57年)3月10日没
 
== 著書 ==
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* 「東西文化の交流」 [[講談社学術文庫]]
* 「古代の朱」 [[ちくま学芸文庫]]、自伝「学問と私」を所収
 
==翻訳==
* 松田壽男訳本は、ヘルマン「[[楼蘭]]」 [[平凡社東洋文庫]]1、昭和38年
** [[オーレル・スタイン]]「コータンの廃墟」 [[中公文庫]]BIBLIO
 
== 参考文献 ==
* 松田壽男訳本は、ヘルマン「[[楼蘭]]」 [[平凡社東洋文庫]]1、昭和38年
** [[オーレル・スタイン]]「コータンの廃墟」 [[中公文庫]]BIBLIO
* 『松田壽男著作集』全6巻 六興出版(絶版)
 
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*[[大日本帝国陸軍文官一覧]]
 
{{DEFAULTSORT:まつ ひさお}}
[[Category:日本の歴史学者]]
[[Category:日本の東洋学者]]