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しまあじ (会話 | 投稿記録)
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== 歴史背景 ==
当初歌舞伎は当初は女が舞台に立つ女歌舞伎が許容され」とし発達した。しかしながら彼そうした役者たちは[[売春]]を兼業していたため、[[町奉行|江戸町奉行所]]はこれを風紀を乱すものとして[[1629年]][[徳川幕府寛永]]6年 (1629) より全ていっさいの女芸人が舞台に立つこと禁止されした。するとこんどは女歌舞伎と並行して人気を博していた、[[元服]]前の少年による「若衆歌舞伎」が盛んになった(若衆歌舞伎は女歌舞伎が禁止される以前。しら、後者と並行て人気を博していた)。彼らもまた売色をしてい兼ねおり、しかもそれは男女両方を相手にしたものだった。そこで町奉行所は[[1652年慶安]]5年 (1652) に若衆歌舞伎も禁止されると民衆は必死に再開を嘆願たため、幕府は条件をつけて許可した。その条件とは[[月代]]を剃った男らしい髪型にすることと演劇を中心として音楽や踊りを控えることであった(これ以降の歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼ぶ)。この後も売色は廃れず、女役の男性役者である[[女形]]にとっては男性に抱かれることが必須の修行と考えられるようになった。こうして修行中の女形は「陰間」や「陰子」と呼ばれ、盛んに酒の席に招かれ客に身を売り、舞台に立つようになると「舞台子」と呼ばれた。
 
ところがこれで江戸の芝居街は火が消えたように閑散としたものになったため、[[江戸っ子]]は繰り返し町奉行所に若衆歌舞伎の再開を嘆願した。そこで奉行所は、役者は[[月代]]を剃った男らしい髪型にすることと、演目は[[狂言]](演劇)を中心として音楽や踊りを控えることなどを条件として、少年が舞台に立つことを改めて許可、以後の歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼ぶ。
 
しかしその後も役者による売色業は廃れることがなく、女性役をつとめる役者・[[女形]]はかえってより実際の女性に近い存在になっていった。そして女形にとって、男性に抱かれることは必須の役者修行のひとつと考えられるようになっていった。こうして修行中の女形は「'''陰間'''」「'''陰子'''」「'''色子'''」などと呼ばれ、舞台に立つようになっても「'''舞台子'''」と呼ばれ、芝居の幕が引かれた後の[[贔屓]]客の酒の席に招かれて、その色香が衰えるまで盛んに色を売ったのである。
 
== 関連項目 ==