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天文13年(1544年)に生まれる。はじめ織田信長に仕え、[[美濃国]][[本巣郡]][[花木城]]主となる。[[天正]]3年([[1575年]])、信長から[[越前国|越前]][[大野郡 (福井県)|大野郡]]に2万石を与えられ、[[柴田勝家]]軍団に属し、[[勝山城 (越前国)|勝山城]]城主となった。天正6年([[1578年]])に[[荒木村重]]が信長に対して反乱を起こすと、その討伐で軍功を挙げ、天正7年([[1579年]])には信長の命令で村重一族の処刑を担当している。
 
信長没後は勝家に従い、天正11年([[1583年]])の[[賤ヶ岳の戦い]]では、柴田方に属して先鋒、及び敗走時には殿を務めた([[太閤記]])が、後に羽柴秀吉(豊臣秀吉方に寝返った。戦後は[[徳山則秀|徳山秀現]]と共に[[前田利家]]の組下に入り、天正12年([[1584年]])の[[能登国|能登]][[末森城 (能登国)|末森城]]の戦いで軍功を挙げた。天正13年([[1585年]])、秀吉の直臣として、[[伊勢国|伊勢]]内に3万石を与えられた。天正18年([[1590年]])の[[小田原の役]]後、[[三河国|三河]]に移封された。[[慶長]]3年([[1598年]])、美濃太田山に移封される
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原の役|小田原征伐]]後、[[三河国|三河]]に移封された。[[慶長]]3年([[1598年]])、美濃太田山に移封される。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し[[福島高晴]]の居城・伊勢[[長島城]]を兵800を率いて攻めた。[[石田三成]]に対して伊勢から[[尾張国|尾張]]に侵攻しての[[清洲城]]攻めを進言し[[毛利秀元]]は賛成したが、三成らの反対で実現しなかったという。関ヶ原本戦にも参加予定であったが、その途上で関ヶ原本戦で西軍れたとの報を聞くといて敗走し、10月13日に自害した。享年57。
 
関ヶ原の戦いのとき、[[石田三成]]に対して伊勢から[[尾張国|尾張]]に侵攻しての[[清洲城]]攻めを進言したという。[[毛利秀元]]は賛成したが、三成らの反対で実現しなかったという。
 
子の彦作は、[[豊後国|豊後]][[臼杵藩]]主・[[稲葉典通]]に仕えたが、大坂の役で大坂方に加わろうとしたことが発覚し、処刑された。