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『'''ブレダの開城'''』
==歴史==
1625年の[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]陥落は、[[八十年戦争]]後半において、数少ないスペイン軍大勝利の1つである。
[[ジェノバ]]の貴族でスペイン軍将の[[アンブロジオ・スピノラ]]は、上司の指示を無視してブレダを占領した。ブレダ占領の前にスペイン政府は、[[ネーデルラント|北海沿岸低地帯]]の堅牢な都市に包囲戦を仕掛けるのは金の浪費だ、[[ネーデルラント連邦共和国]]の経済封鎖に集中すべきだ、という方針を既に決定していた。この段階でスペイン軍の大部分は、大きく展開する[[三十年戦争]]の方に振り分けられていた。
ブレダは国境線近くにあるオランダの都市で、1567年以来[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]の支配を受け、10年後に奪還されるも再び襲撃を受けた。<!--ten years afterwards recovered by [[Holach]], and again seized by [[Hautepenne]]. -->
町は[[オラニエ=ナッサウ家]]の所領で、彼らが気付いた堅固な城は「Vale of Tempe」と呼ばれた。
スピノラが軍功をたてたのは、1604年に[[フランドル]]の[[オーステンデ]]を陥落させて[[金羊毛騎士団#概要|金羊毛勲章]]を得たときである。したがってブレダの包囲は、オランダとスペインの交戦であるだけではなく
オランダ側の名将[[マウリッツ (オラニエ公)|オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッサウ]]はスピノラと互角の戦いを交わしていたが、包囲戦が終了する前に死亡していた。その後を継いだ[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|オラニエ公フレデリック・ヘンドリック]]<ref>ただし絵の中央で、スピノラが肩に手を置いて労わっている敗軍の将は、
スピノラの勇猛と成功に感化されてベラスケスの描いた絵が『ブレダの開城』であった。
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[[Category:絵画作品]]
[[Category:スペインの芸術]]
[[Category:オランダの歴史]]
[[Category:戦争を題材とした作品]]
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[[ca:La rendició de Breda]]
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