「マクシム・プルカエフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
元諜報員 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
5行目:
ナリトヴォ村(現[[モルドバ共和国]]ドゥベンスキー地区プルカエヴォ村)出身。1915年から[[ロシア帝国軍]]に入隊。1916年、准尉学校を卒業し、サラプルの予備狙撃連隊に勤務した。1917年の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]後、連隊兵士委員会委員に選出。
 
1918年、[[赤軍]]に入隊し、1919年から共産党員。[[ロシア内戦]]時、中隊長として[[シンビルスク]]、[[サマーラ|サマラ]]、ブグルスラン、オルスクの戦いに参加した。1919年8月から第24サマラ鉄師団の連隊長。1923年、「射撃」課程を修了し、連隊長、師団長補佐、師団参謀長、軍管区本部の課長、参謀次長を歴任する。1936年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業し、師団長を務める。1938年~1940年、白ロシア軍管区参謀長。1940年7月からキエフ特別軍管区参謀長となり、[[ポーランド侵攻]]に参加した。
 
[[独ソ戦]]時、[[南西戦線 (ソ連軍)|南西戦線]]参謀長(1941年6月~7月)、第60軍(1941年12月から第3打撃軍)司令官、[[カリーニン戦線 (ソ連軍)|カリーニン戦線]]司令官(1942年~1943年)を歴任する。[[モスクワの戦い]]、トロペツコ・ホルムスク作戦、セリゲル川の敵防衛線の突破に参加し、ヴェリーキエ・ルーキ作戦を立案・実行した。