「中村歌右衛門 (3代目)」の版間の差分

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| 芸名 = 三代目 中村 歌右衛門
| ふりがな = さんだいめ なかむら うたえもん
| 画像ファイル =Utaemon Nakamura III as Takebe Genzō cropped.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像コメント = 『[[菅原伝授手習鑑]]』の武部源三
| 屋号 = [[加賀屋 (歌舞伎)|加賀屋]]
| 定紋 = 祇園守 [[File:Gion Mamori Inverted.jpg|55px]]
| 定紋 =
| 生年 = 1778
| 生月 = 3
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| 妻 =
| 子 =
| 当たり役 = 『一谷嫩軍記』の直実<br />『仮名手本忠臣蔵』の定九郎<br />『楼門五三桐』の五右衛門<br />『隅田川続俤』の法界坊
| 当たり役 =
}}
'''三代目 中村 歌右衛門'''(さんだいめ なかむら うたえもん、[[1778年]][[3月31日]]([[安永]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[1838年]][[9月13日]]([[天保]]9年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]))は[[幕末]]に活躍した[[歌舞伎]]役者。[[屋号]]は[[加賀屋 (歌舞伎)|加賀屋]]。俳名に歌七・梅玉・芝翫、雅号に百戯園がある。本名は'''大関 市兵衛'''(おおせき いちべえ)。<!--通称:「梅玉歌右衛門」。-->
 
[[中村歌右衛門 (初代)|初代中村歌右衛門]]の子。万能型の役者で、その型は後に梅玉型といわれた。
 
==来歴==
[[大坂]]に生まれる。7歳の時に初舞台。天明八年三月 (1789年4月) に10歳で加賀屋福之助を名乗り、大坂[[中の芝居]]で敵役をつとめ好評を得る。[[道外方]]、[[立役]]、[[若衆|若衆方]]など幅広くこなした。
 
寛政三年十月 (1791年11月) 父が死去、翌月に父の門弟が名乗っていた[[中村歌右衛門|歌右衛門]]を譲り受け襲名する。寛政十二年十二月 (1801年1月) より立役に転じ[[嵐吉三郎|二代目嵐吉三郎]]と競い合い大坂で人気を二分する、[[所作事]][[実事]][[女形]]また幅広く[[時代物]][[世話物]]もこなした。
 
文化五年 (1808) に[[江戸]]に行き[[中村座]]に出て、[[坂東三津五郎 (3代目)|三代目坂東三津五郎]]と競い合い今度は江戸で人気を博す。文化十五年二月 (1818年3月) に[[中村芝翫]]を名乗る。翌年大坂にて歌右衛門に復し以後[[立役]]を演じつとめる。
 
文政八年 (1825) に一度引退興行を行なうが、すぐに舞台復帰する。評判記には文政十年 (1827)「無類」、天保三年 (1832) には「古今無類総芸頭」を受ける。
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しかしこの頃から病気がちになり、門下の[[中村歌右衛門 (4代目)|二代目中村芝翫]]に歌右衛門を名を譲って、自らは[[中村玉助]]を名乗った。
 
当り役は『[[一谷嫩軍記]]』の[[熊谷直実]]、『[[義経千本桜]]』の[[佐藤忠信|狐忠信]]、『[[仮名手本忠臣蔵|忠臣蔵]]』の[[大野群右衛門|定九郎]]、『[[楼門五三桐]]』の[[石川五右衛門]]、『[[隅田川続俤]]』の[[穎玄|法界坊]]、『[[五大力恋緘]]』の弥助など。
 
作者としても活躍し、'''金澤龍玉'''(かなざわ りゅうぎょく)の名で『[[雁のたより]]』などを残している。
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{{DEFAULTSORT:なかむら うたえもん03}}
{{Actor-stub}}
[[Category:歌舞伎役者]]
[[Category:1778年生]]