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[[Image:Karl Liebknecht.jpg|thumb|250px|カール・リープクネヒト]]'''カール・リープクネヒト'''('''Karl Liebknecht''', [[1871年]][[8月13日]]-[[1919年]][[1月15日]])は、[[ドイツ帝国|帝国時代]]の[[ドイツ]]の[[政治家]]で[[共産主義]]者。[[ドイツ社会民主党]]創始者[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]] ([[:de:Wilhelm Liebknecht|de]]) の子。
 
== 生涯 ==
[[ライプツィヒ]]で生まれ、[[1890年]]から93[[1893]]にかけて[[ライプツィヒ大学]]・[[ベルリン大学]]で法学や経済学を学び、弁護士となった。社会民主党最左翼に属し、[[1906年]]11月28日に[[マンハイム]]で行った講演『軍国主義と反軍国主義 (Militarismus und Antimilitarismus,unter besondere Berucksichtigung der internationalen Jugendbewegung)』を[[1907年]]に出版して投獄された。
 
出獄後[[1908年]]にプロイセンの下院議員、次いで[[1912年]]に[[帝国議会 (ドイツ帝国)|会]]議員となる。[[第一次世界大戦]]が勃発した[[1914年]]、社会民主党の主流に反してただ一人で軍事公債に反対する。社会民主党を脱党して[[1916年]]から[[ローザ・ルクセンブルク]]とともに[[スパルタクス団]]を組織し、革命運動を指導した。同じ年、ベルリンの[[ポツダム広場]]における反戦デモの煽動者として投獄されたが、[[1918年]]の[[ドイツ革命]]勃発によって釈放された。
 
ロシア革命で成功した[[ボルシェヴィキ]]の考え方に接近し、機関誌『[[ローテ・ファーネ]](赤旗)』 ([[:de:Die Rote Fahne|Die Rote Fahne]]) などにより宣伝活動を続けた。[[1918年]][[11月9日]]、ベルリンがデモで揺れる中「自由社会主義共和国」の樹立を宣言しようとしたが、[[フィリップ・シャイデマン|シャイデマン]]などの社会民主党の主流派による共和国樹立宣言に先を越された。彼はシャイデマンの宣言の2時間後、[[ベルリン王宮]]のバルコニーから社会主義共和国誕生の宣言を行う。
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*A・ローゼンベルク『ヴァイマル共和国史』
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[[Category:ドイツ帝国人物政治家]]
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[[Category:共産主義者]]