「ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)」の版間の差分

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m 「采配を振るう」は誤用
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ニコライは非常に信心深い人物であり、朝でも夜でも食前食後は祈りを欠かすことが無かった。田舎にいるのが大好きで、自分の領地の管理をしたり狩猟をするのを趣味にしていた。また穏健派ではあったが、[[汎スラヴ主義]]を奉じる国粋主義者だった。
 
1895年、ニコライは騎兵総監を務めることになり、以後10年間この職務にあった。騎兵総監の地位にあるあいだ、ニコライは将兵の訓練と騎兵学校の改革を行い、騎兵と騎馬のより効率よく供給・確保するよう努めて、成功をおさめることが出来た。ニコライ大公は[[日露戦争]]では司令官の地位を与えられなかったが、これには皇帝ニコライ2世の思惑があった。皇帝はもし皇族を司令官として敗北した場合にロシア帝室の威信が傷つけられるのを避けようとしたのと、国内情勢が不安な時に、忠誠心厚い将軍をそばに置いておきたいと考えたのだった。このため、ニコライ大公は戦場で采配を振る機会を逸した。1905年6月、陸軍と海軍の活動を調整する国家防衛会議(1908年7月に解散)議長に就任し、[[ロシア帝国軍参謀本部|参謀本部]]の[[ロシア帝国軍事省|軍事省]]からの分離を実現した。
 
ニコライ大公は1905年の[[ロシア第一革命]]では極めて重要な役割を果たすことになった。無政府状態が拡大し、[[ロマノフ王朝]]の未来が風前のともしびとなりつつある中で、皇帝ニコライ2世は[[セルゲイ・ヴィッテ]]伯爵の提案する立憲君主政体への改革案を受け入れるか、軍事独裁体制をしくかの選択を迫られた。大公は皇帝が軍事独裁のクーデタを起こす場合でも、軍隊の忠誠を皇帝につなぎ止めておける唯一の人物であった。皇帝は後者の選択肢を選び、ニコライ大公に軍事独裁官の地位を与えようとした。しかしニコライ大公は独裁官に就任するのを拒否し、おもむろにピストルを取り出すと自分のこめかみに銃口をあて、もしヴィッテ伯爵の改革案を了承しないのならば、この場で自殺すると皇帝を脅したのである。大公の脅しに動揺したニコライ2世は、立憲君主制への改革に踏み出すことを決意した。
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=== 第1次世界大戦 ===
[[ファイル:Nikolai II i Nikolai Nikolaevic 29 iun 1913 Karl Bulla.jpg|thumb|right|250px|皇帝[[ニコライ2世]]とニコライ大公、最前列にいる人物が皇帝、中央の最も背の高い人物がニコライ大公、1913年]]
第1次世界大戦に向けた作戦計画と戦争準備は[[ウラジーミル・スホムリノフ]]とその幕僚たちの責任のもとで行われていたため、ニコライ大公はこの時点では何の役割も担っていなかった。第1次大戦がいよいよ始まる段になって、自分が最高司令官を務める気でいた[[ニコライ2世]]は、やめてほしいという大臣たちの懇願に根負けし、1914年7月20日、従叔父のニコライ・ニコラエヴィチ大公を帝国軍最高司令官に任じた。ニコライ大公は57歳になっていたが、まだ戦場で総司令官として采配を振ったことは一度もなかった。彼は自分がこれまで一度も率いたことのない規模の巨大な軍隊を統率する責務を負わされた。
 
ニコライ大公はドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコなど[[中央同盟国]]と戦う全ロシア帝国軍の最高責任者だった。大戦開始直後から、ニコライ大公は苦戦を強いられた。[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]では、第1軍と第2軍との連携がうまくいかなかったたために、壊滅的な敗北を喫した。一方で続いて起きた[[ヴィスワ川の戦い]]と[[ウッチの戦い (1914年)|ウッチの戦い]]では、ロシア軍が勝利を得た。大勢のロシア将軍たちが様々な作戦プランを決めていく場において、ニコライ大公の役割は限られたものとなった。大公とその参謀からは勝利する公算の大きそうな、首尾一貫した作戦計画が出されることはなかったが、大公は個人のレベルでは将官にも一般兵士にも好かれていた。