「アルフレッド・テニスン」の版間の差分

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[[リンカンシャー州]][[サマズビー]]に牧師の子として生まれる。[[1831年]]まで[[ケンブリッジ大学]]に学び、[[1827年]]兄のチャールズやフレデリクとともに詩集『Poems by Two Brothers』を出版したが、単独の詩集『Poems Chiefly Lyrical』([[1830年]])は[[ジョン・キーツ]]の影響を示している。次いで[[1833年]]『シャロットの妖姫 The Lady of Shalott』を発表したが酷評され、以来10年間沈黙する。
 
[[1832年]]に学友のハラム([[:en:Arthur Henry Hallam|Arthur Henry Hallam]])と大陸を旅行するがその翌年にハラムが急死し、強い衝撃を受けて彼を弔う長詩『[[イン・メモリアム]]』''In Memoriam A.H.H.''を書き始め、十数年にわたる自己の思想の成長をも織りこんで[[1849年]]に完成させた。友人の死と進化論によって揺れ動く信仰をうたった詩であり、序詩は「[[つよき神の子、朽ちぬ愛よ]]」として[[讃美歌 (1954年版)|讃美歌]]275番に収録されている<ref>[[渡辺正雄]]『科学者とキリスト教』ブルーバックス</ref><ref>ケアンズ『基督教全史』[[いのちのことば社]]</ref>。[[1842年]]『Poems by Alfred Tennyson』で名をなし[[1845年]]に年金を授与された。[[1847年]]に叙事詩『The Princess』を発表し、[[1850年]][[ウィリアム・ワーズワース]]の後継者として[[桂冠詩人]]となった。この年に結婚している。
 
[[1855年]]『Maud』、1859~64年にかけて[[アーサー王物語|アーサー王伝説]]に取材した『[[国王牧歌]]』や、哀れな水夫の[[物語詩]]『イノック・アーデン Enoch Arden』([[1864年]])、『Locksley Hall Sixty Years After』([[1886年]])を発表し、[[1884年]]には'''テニスン[[男爵]]'''に叙せられた。[[1889年]]の短詩『砂州を越えて Crossing the Bar』は辞世の歌として名高い。
 
1892年に死去し、[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬された。葬式では愛唱した[[讃美歌]]、「[[聖なる、聖なる、聖なるかな]]」が歌われた。次男[[:w:Hallam Tennyson, 2nd Baron Tennyson|ハラム]](後の第2代[[オーストラリアの総督|オーストラリア総督]])が爵位を継いだ。現在、テニスン男爵の爵位は6代目の[[:w:David Tennyson, 6th Baron Tennyson|デヴィッド・テニスン]]([[1960年]]生まれ)が継承している。
 
==脚注==
<references />
 
==著書==
*『アーサー王物語』菅野徳助、奈倉次郎訳註 三省堂
*[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=43012081&VOL_NUM=00000&KOMA=4&ITYPE=0 『イ-ノック・ア-デン』長谷川康訳]1925年
*『イン・メモリアム』入江直祐訳 岩波書店
 
== 参考文献 ==