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永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては[[宇佐八幡]]を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は[[田北鑑生]]、吉弘鑑理と共に[[横岳資誠]]と[[小田鎮光]]との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と[[神代勝利]]を和睦させた。
 
永禄4年(1561年)、[[奈多鑑基]]は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、奈多八幡の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の[[伊集院忠倉]]の申し出を受け、豊州二老は日向の[[伊東義祐]]と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の[[阿蘇惟将]]の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の[[志賀親守]]はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。
 
永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮と共に出家、吉岡宗歓と名乗り、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。
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== 人物 ==
* [[天正]]6年(1578年)9月、大友宗麟は重臣が反対するなか島津討伐を強行した際に。家老の[[吉弘鎮信]]は「吉岡宗歓殿、臼杵鑑速殿がいたときは正道正しく、礼儀に違わず、信賞必罰が行われ、人の恨みはなかった。今は[[田原親賢]]の意見が重用され、代々の家臣が遠ざけられ、ねい臣ばかりがはびこり、浅ましい限りである。立花道雪殿がここにいれば大友もここまで悪くならなかったろう」と無念を述べている。
 
* 永禄9年(1566年)のものと思われる書状に「宗歓殿によくよくお伝えしたい問題があり、その用意をしていたところ宗麟夫人からこの問題のため佐藤左近将監が我らの所に使わされました。この問題の状況について項目をつけてお知らせします。あなたに考えてもらうことをお許しください。問題を知ったら、宗歓殿は必ず意見を仰って下さい。我らへの思し召しを持って問題を引き受けられ解決の為関わって下さい。鑑連 鑑速 鑑理より」とある。問題の内容はわからないが、宗歓が頼りにされている事が分かる。
 
江戸時代の資料には宗歓が度々、義鎮を諫言しているが、史実でも一萬田鑑相、宗像鑑久兄弟と服部右京の3人が義鎮に対し、蜂起した際、宗歓(このときは長増)は三人をかばっている。「何度(義鎮)を諌めたが、(義鎮)が頻りに討伐命令を出し、お聞きにならなかった。」
{吉岡長増他連判状より}
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