「島田守政」の版間の差分

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寛永17年([[1640年]])に御小性組番士として出仕し、父利正の[[武蔵国]][[入間郡]]の采地より一千石を分けられた後、明暦2年([[1656年]])には御徒頭、万治元年([[1658年]])には御目付にと順調に出世する。
 
[[寛文]]2年([[1662年]])から寛文6年([[1666年]])には[[長崎奉行]]。[[寛文長崎大火|大火]]で消失した長崎の町を区割りや道路幅を改め、町全体を機能的な貿易都市へと再編するなど手腕を認められ、寛文7年([[1667年]])から[[延宝]]9年([[1681年]])に渡って江戸北町奉行に任ぜられた。[[伊達騒動]]での申次役など訴訟関連で多く名が見える。
 
[[元禄]]元年([[1688年]])、配流されていた[[松平光長]]再召還の際に不手際があり、勘気を被って閉門させられる騒動があった。翌年には赦され2年後には復帰している。