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[[画像:Marin mersenne.jpg|thumb|マラン・メルセンヌ]]
'''マラン・メルセンヌ'''(''Marin Mersenne'', [[1588年]][[9月8日]] - [[1648年]][[9月1日]])は、[[フランス]]の神学者。数学、物理に加え哲学、音楽理論の研究もしていた。[[フランスの州_(フランス革命以前)|メーヌ州]](現在は[[サルト県]])オアゼ出身。[[メルセンヌ数]](メルセンヌ素数)の名の由来ともなる。また[[音響学]]の父とも呼ばれる。<ref>{{cite article|last=Bohn|first=Dennis A.|year=1988|title=Environmental Effects on the Speed of Sound|journal=Journal of the Audio Engineering Society|Pages=223-231|Volume=36|Number=4}}</ref>ヨーロッパの学者の間の交流の中心となって学問の発展に貢献したことで知られる。
 
今ほど、通信手段が発達しておらず、研究者間の書簡のやり取りや議論が困難だった時代、メルセンヌは、エティエンヌおよび[[ブレーズ・パスカル]]父子、[[デザルグ]]、[[ジル・ド・ロベルヴァル]](数学者)など当代の一流の研究者、思想家達を招き、修道院の客間にて学問を論じ合う広い交流を維持しており、メルセンヌ・アカデミーと称された。これが、1666年に創立される[[パリ科学アカデミー]]へと発展してゆく。その他にも、[[フェルマー]]や[[ルネ・デカルト]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]や[[ホイヘンス]]や[[トリチェリ]]などとも交流があり、科学的な雑誌がなかった時代、当時のヨーロッパ中の学者たちとの交流をはかり、学問の発達に大いに貢献した。
 
==生涯==
1588年9月8日に出生し、即日カトリックの洗礼を受けた。幼少より勉学の才を表し、メルセンヌの両親は財政的な困窮にも関わらず彼に教育を受けさせ、最初にル・マン校で文法を専攻し、16歳の頃、ラ・フレッシュにある王立学院に入った。そこは親の経済状況を問わず才能ある若者を育成るため新設された[[イエズス会]]士の教育機関であった。メルセンヌより8歳年下のデカルトも後に彼らが終生の友情を結ぶことは知らずに2年後輩として入学している。その後[[パリ大学]]で神学を学び、1614年から1618年の間は[[ネベヌヴェール]]で哲学と神学を教えた。1620年にパリに戻り、以降イタリアやオランダへの旅行以外は、終生パリの僧院に住み続け神学と哲学を教えるかたわら、自身の学問の研究を続けた。しばしばメルセンヌは修道士であると誤解されるが、実際には修道士の教育機関によって教育を受け指導者となっただけであり、イエズス会員になったことはない。
 
温和で親切な性質で、当代の研究者達の交流のネットワークを積極的につくりあげた。ガリレオの学術研究もサポートし、いくつかの翻訳作業などを行った。メルセンヌが彼らと交わした膨大な往復書簡は、当代の偉人の業績や生活ぶりを知る現在の貴重な研究資料ともなっている。特にデカルトとは親友であり、デカルトがオランダへ移ったさいもメルセンヌだけにその居場所を教え交信を続けた。またデカルトによるとメルセンヌは非常に好奇心が旺盛で、旧約聖書『[[創世記]]』28章12節に出てくる「ヤコブの梯子」の長さを計算してみるなど「様々なことを知りたがりすぎる」とこぼさせた。
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メルセンヌが自身の公式で257以下の整数で素数として予想した10個の数字は、検証することなしに出されたものであり、結果としては半分の的中率であったが、逆に言えば勘だけで5つの素数を言い当てたことにもなり直感的に物事を捉える能力に秀でていたともとれる。
 
カソリック教徒であるメルセンヌはルネサンスの自然魔術やヘルメス哲学、カバラを嫌悪し、[[プロテスタント]]的思想の[[薔薇十字運動]]を黒魔術師の団ないし思想的テロリストの陰謀結社とみなしていた。普段は温厚なメルセンヌもペンを持つと人格が変わり厳しく[[フィチーノ]]や[[ピコ]]や[[アグリッパ]]を罵倒した。そして、彼の攻撃は、同時代人の薔薇十字運動に加わっていた哲学者、[[ロバート・フラット]]にも向けられ泥沼化し、メルセンヌ・フラッド論争に発展する。
 
メルセンヌは数学だけでなく、宗教や音楽にも神の造りし秩序ある法則性をあてはめて捉え、科学と宗教を統合させようと試みた。1648年、59歳で肺脳腫によって死亡。享年59歳
 
== 業績 ==
===数学===
*メルセンヌ数/メルセンヌ素数の定義
メルセンヌは"Cogitata Physico-Mathematica "(1644年)において、 '''2のn乗マイナス1(2^n - 1 )が素数ならば、nも素数である'''と定義した。この時の公式から導き出される自然数を[[メルセンヌ数]]、素数のことを[[メルセンヌ素数]]と呼ぶ。さらにメルセンヌはn ≦ 257 では2^n - 1 の整数について、n = 2,3,5,7,13,19,31,67,127,257については素数であるが、それ以外の257未満の正の整数の場合は合成数であるという予想をだしたが、実際にはリスト以外のn=61,89,107も素数であり、リスト内の67,257は素数ではなく合成数であることが後にオイラー、ルーカス、パヴシン等により証明された。nにあらゆる数値を代入し素数を検証・発見することは今では世界中でコンピューターを使って行われている。2009年8月現在、47個のメルセンヌ素数が発見されている。
 
メルセンヌ素数を用いた擬似乱数発生アルゴリズムを用いて開発された擬似乱数生成器に[[メルセンヌ・ツイスター]]がある。擬似乱数はコンピュータの速度競争やアルゴリズムの優劣判定、公開暗号キー等に使用されるようになる。
 
===音律/音学理論===
*;12平均律の確立
:メルセンヌは「音響学の父」とも呼ばれ、音律に関する理論書を多数書いている。"Harmonie universelle"(1636年)に於いて、オクターブを20000000:1000000として、ほぼ完璧に平均律を記述し、ヨーロッパで最初に音律の明確な理論を、確立した。これには2の12乗根の計算が必要であり、メルセンヌの数学的素養は、音律にも生かされている。
*弦楽器の研究
弦楽器の音の高さが弦の長さによってのみ決まることを洞察し、振動数と弦の長さ・密度・張力との関係を数学的に定式化した。「海のトランペット」と呼ばれる[[トロンバ・マリーナ]]という弦楽器の図版なども残している。
===哲学/思想/宗教===
*機械論哲学
デカルト的な[[機械論]]の支持者であり、世界は霊魂をもたない受動的な機械ととらえ、物体は厳密な数学的自然法則によって全面的に決定されており、神に完全に依存することにより神の全能性を高めた。一方あらゆる物体にまで霊魂が宿ると主張する魔術思想的なルネサンス哲学を否定していたメルセンヌは「魔術から機械論への移行」を担った哲学者でもあった。このためルネサンスの魔術の後継者的、薔薇十字運動を認めず支持者を激しく非難した。
 
*;弦楽器の研究
*翻訳
:弦楽器の音の高さが弦の長さによってのみ決まることを洞察し、振動数と弦の長さ・密度・張力との関係を数学的に定式化した。「海のトランペット」と呼ばれる[[トロンバ・マリーナ]]という弦楽器の図版なども残している。
ルネ・デカルトの「方法序説」の中で提唱した有名な命題である『[[我思う、ゆえに我あり]]』のラテン語訳(cogito, ergo sum)を行った。デカルト自身はフランス語で記述した。
 
*=== 機械論哲学 ===
cogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito - 私は思う、ergo - それ故に、sum - 私は在る)
デカルト的な[[機械論]]の支持者であり、世界は霊魂をもたない受動的な機械ととらえ、物体は厳密な数学的自然法則によって全面的に決定されており、神に完全に依存することにより神の全能性を高めた。<ref>Phillips, Henry. ''Church and Culture in Seventeenth Century France.'' Cambridge: Cambridge University Press. (1997)</ref>一方あらゆる物体にまで霊魂が宿ると主張する魔術思想的なルネサンス哲学を否定していたメルセンヌは「魔術から機械論への移行」を担った哲学者でもあった。このためルネサンスの魔術の後継者的、薔薇十字運動を認めず支持者を激しく非難した。
 
== 他の学者との交流 ==
ガリレオ理論の翻訳をフランスで初めて刊行して、コメントも付けている
 
メルセンヌの時代は今ほど通信手段が発達しておらず、研究者間の書簡のやり取りや議論が困難だった時代、メルセンヌは、エティエンヌおよび[[ブレーズ・パスカル]]父子、[[ジラール・デザルグ]]、[[ジル・ド・ロベルヴァル]](数学者)など当代の一流の研究者思想家達を招き、修道院の客間にて学問を論じ合う広い交流を維持しており、メルセンヌ・アカデミーと称された広い交流を維持していた。これが、の活動は1666年に創立される[[パリ科学アカデミー]]へと発展してゆく。その他にも、[[フェルマー]]や[[ルネ・デカルト]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]や[[ホイヘンス]]や[[トリチェリ]]などとも交流があり、科学的な雑誌がなかった時代、当時のヨーロッパ中の学者たち文通による交流をはかの中心となり、学問の発達に大いに貢献した。
 
ルネ・デカルトの「方法序説」の中で提唱した有名な命題であり、デカルト自身はフランス語で記述していた『[[我思う、ゆえに我あり]]』のラテン語訳(cogito, ergo sum)を行った。デカルト自身はフランス語で記述した。
== 外部リンク ==
* [http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Mersenne.htm 数学史データベースの当該の項目]
 
メルセンヌは[[ガリレオ・ガリレイ]]の積極的な支持者で、ガリレオ理論のコメント付き翻訳をフランスで初めて刊行している。
== 参考文献/URL ==
 
== 参考文献/URL ==
* http://transact.seesaa.net/article/73965874.html
<references/>
* http://q.hatena.ne.jp/1136901967
{{refbegin}}
* http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/furench.htm
* [http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Mersenne.htm 数学史データベースの当該の項目]
* http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_05.pdf
* 科学と宗教 合理的自然観のパラドクス J.H. ブルック
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