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== 伝記 ==
トンブリーで開業していた華僑の金細工職人の娘として1900年誕生する。9歳の時父母が死亡したが、[[ペッチャブリーラーチャシリントーン]]内親王女(ワライアロンコーン内親王女)の宮女となり、[[サットリーウィッタヤー学校]]に通う。その後、16歳の時から[[シリラート病院]]に看護婦として勤務するが、後に王室の奨学金を頂戴し、アメリカに留学、20歳で留学先で出会った[[マヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム|ソンクラーナカリン]]親王子(マヒドンアドゥンラヤデート親王子)と結婚した。その後、ソンクラーナカリンが急病に倒れる1929年までに、[[ナラーティワートラーチャナカリン|カンラヤーニワッタナー]]内親王女、アーナンタマヒドン親王子、プーミポンアドゥンラヤデート親王子、を産んだ。
1929年にソンクラーナカリン親王子が死去すると、サンワーンの理解者であり姑であった[[シーサワリン]]妃(サワーンワッタナー内親王女)の住む[[サラパトゥム宮殿]]に身を寄せる。後に、[[立憲革命 (タイ)|立憲革命]]の混乱の最中、[[ラーマ7世]](プラチャーティポック)が退位、1935年に息子のアーナンタマヒドン親王子が国王になり、親王子の平民出身の嫁から一躍、国王の母となった。このころ、サンワーンからシーサワリン妃に送られた書簡には「私が国王の母にふさわしくないのであれば、どうぞ王族の母を持つ方を王に選出するように彼ら(=政府)に言ってください」とあり、かなり動顛していたことが伺われる。
1935年に息子が即位しラーマ8世となると、ラーマ8世があまりタイの気候に遭わないことや、ラーマ8世の学業の継続などの理由から、家族もろともスイスのローザンヌに戻った。その後ラーマ8世が謎の死を遂げると、今度はプーミポンが国王となった。1960、プーミポン国王と[[シリキット]]王妃がヨーロッパへ行くと、一時的に摂政となり国王の業務を代行した。
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