「山縣有朋」の版間の差分

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宮中某重大事件の後、ほどなくして山縣は失意のうちに逝去する。{{享年|1838|6|14|1922|2|1}}。
 
その死に際しては、維新の元勲として[[国葬]]が行われたが、参列したのは陸軍や警察の関係者や義務的に参加した官僚がほとんどで、一般の参列はほとんどなかった。これに対し、ほぼ同時期に行われた[[大隈重信]]の葬儀は、同じ首相経験者であり維新の[[元勲]]であったのにもかかわらず国葬にならなかったものの(「[[国民葬]]」とされた)、各界の著名人が出席し、一般参列者によってごった返すなどあまりに対照的だった(新聞の宣伝効果の影響もあるが)。当時、新聞記者だった[[石橋湛山]](1956~57年 内閣総理大臣)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された(「国民葬」から「民」を抜くと「国葬」となる)。
 
山縣の死とともに薩長藩閥支配はほぼ終焉となるが、一方で軍・政府は統制が利かず世界恐慌の影響もあり日本は混乱の時代へと向かう。