「パラッツォ・ファルネーゼ」の版間の差分

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==概要==
Sir Banister Fletcher[http://www.italycyberguide.com/Geography/cities/rome2000/H15a.htm (1)]{{リンク切れ|date=2010年1月}} が「16世紀のイタリア建築のおいては最も壮大で素晴らしい建築である」と評したこの建物は、[[ドナト・ブラマンテ]]の下で[[サン・ピエトロ大聖堂]]の建造に携わった[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ]]の設計。妹[[ジュリア・ファルネーゼ|ジューリア]]が教皇アレクサンデル6世の愛人となったということもあり、[[1493年]]に[[枢機卿]]に抜擢された[[パウルス3世|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]の命で1~2年の準備期間の後<ref>The definitive date, based on new documentary information was published by Christoph Frommel, (in A. Chastel, ed. ''Le palais Farnèse''; Murray 1963 cited construction beginning in 1513, Giedion in 1514</ref>、1515年から建造がはじまったが[[1527年]]の[[ローマ略奪]]のときには作業は中断に追い込まれた。[[1534年]]1月、ファルネーゼがローマ教皇[[パウルス3世]]になった時には、3階部分のコーニスの完成と中庭のデザインを変更のためにミケランジェロを雇い、ファルネーゼ家の威信の象徴を造らせた。その厳格なファサードは前に広がるピアッツァ(広場)からみても多大なる存在感を放っており、特徴的なのがピアノ・ノービレ(主階)の窓上部にある互い違いのデザインが並ぶ[[ペディメント]]や中央の飾り気のない玄関、[[ミケランジェロ]]の手掛けた[[コーニス]]である。中央の窓はファルネーゼがローマ教皇になった時に変更されたもので、教皇冠の紋章ではローマ帝国時代の中では最大のものを支える為の[[アーキトレーブ]]が加えられた<ref>"The incredibly pretentious magnificence of this residence for a single man points to the imminence of [[Baroque]].... This monumental window seems to await the arrival of the great overlord who is about to show himself to the populace", remarked [[Siegfried Giedion]], ''Space, Time and Architecture'' (1941) 1962, pp 56-57.</ref>。このパラッツォ(宮殿)は1534年と[[1541年]]に再設計され、元の設計者サンガッロの没年[[1546年]]からはミケランジェロの指示による修正が行われた。
 
==関連項目==