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{{インドネシアの歴史}}
'''パドリ戦争'''(ぱどりせんそう、インドネシア語: Perang Padri)は、[[1821年]]-[[1837年]]、[[オランダ領東インド]](現[[インドネシア]])の西[[スマトラ]]・[[ミナンカバウ]]地方で、[[イマム・ボンジョル]]<ref>1772-1864年、はじめはマリ・バサでのちにこの名になった。パドリ派の間で非常に大きな影響力を持つ指導者であり、近代教育を受け平和を好んだ。指導者は他に、トゥアンク・メシガン、トゥアンク・ナン・レチュ、ダトゥック・バンダハロがいる。</ref><ref>イ・ワヤン・バドリカ著、石井和子監訳、桾沢英雄・菅原由美・田中正臣・山本肇訳『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』明石書店 2008年</ref>が指揮するイスラーム改革派(パドリ派)と、[[オランダ]]軍が支援する反パドリ派([[アダット]]派)とが戦った戦争である。当初は宗教改革運動として推移したが、オランダ軍が介入したことによって反オランダ戦争の様相を示すことになった。
 
== 概要 ==
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オランダはミナンカバウ地方を平定したことで、ここを西スマトラ州として強固な植民地支配体制に組み込むとともに、[[コーヒー]]の強制栽培制度を導入するなど、植民地経済経営にも着手した。
 
== 脚注 ==
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== 関連文献 ==